伊丹万作の文章に想う

広く採用された誤読

先日、美しい文章を読んだ。
http://anond.hatelabo.jp/20110413222428
見ての通り、美しくない表題のついた増田(はてな匿名ダイアリー)の記事であったが、そこで引用された文章の美しさはいささかも害されてはおらず、その対照的な様子に思わず笑ってしまった。その後この記事につけられたブコメを読んだ。どうも表題に気を取られてしまい、慌てて読んだ人が多いらしい。この文章に対して向けられたブコメのほとんどは、ある解釈にしたがって組み立てられていた。
「騙された我々が悪い。だから他者の責任を追求することはやめなさい。」とこの文章は言っている、という文章解釈だ。

そうは読めない根拠

私はこの文にすっかり感服してしまったので、少し弁護をしたい。正直、私は、伊丹万作のことを良く知らない。彼が書いた他の文章を読んだこともないし、歴史的にどういった文脈から、そしてどういった思想的背景からこういう意見を表明したのかも知らない。しかし、この文章を一つのテキスト、唯一の資料として考えた場合、先に述べたような解釈はでてこない。それは、以下から判断することができる。

一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。


太字強調は私のものである。この強調部分から明らかなように、「戦犯者の責任を追求するな」と伊丹氏は言っていない。「外部(他者)への責任追及」の優先度を、個人的に、「内部(自己)への責任追及」の下へおいただけだ。さらに、その優先度を下へ置いてはいるが、「外部(他者)への責任追及」についても具体的な言及をしている。(その限界を指摘する文脈ではあるが。)

[…]この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。


私には、これ以外の合理的解決法は思いつかない。政治的解決として、今の原発問題に対しても、一定の基準を置き、その網の目、ふるいの中に残ったものに責任を問う以外に解決法があるのだろうか?これほど明確に「責任者の責任を追求する方法」について述べているというのに、「一億総懺悔すべし、戦犯の責任を追求すべからず」という読解がなされてしまっているのはどうしてなのか。扇動的な表題の力を思い知らされるが、今回の増田氏は子供の喧嘩を解決するために、未消化のまま論語の一節を引用したような塩梅で、元の文の論と引用者の正当性は全く別であると個人的には考えている。

 また、仮に「みんな悪いんだよ」という結論を出すにしても、このような反論が可能となる。"id:amamako氏のTwitter発言"
まったくもっともだと思う。ただ、やはり起点は「一億総懺悔、己の他を罰するべからず」になっているようにも思える。ひょっとしたら、私の無学のせいで伊丹氏の真の主張がそうなのだと知らないだけなのかもしれないとも思われる。もしそうであるなら自分の不明を恥じる。けれど、見たところこの文をはじめて読んだ(ひどい場合は全て読んでもいない)人間が、最初に述べた「一億総懺悔解釈」をしているようなので、やはり良く文章を読んでいないのだと思う。「もちろん重要だが」を、「重要ではない」と読む法はない。

結論

「良く読もう」