反・自己責任論の補足と、バールのようなもの[プライベート][似非哲学][批判][あそび]

ふと、先日のエントリの「考察」における、ロシアンルーレットの例は、「自由意志を持った人間の解釈が介在しないので、例えとして不良である」という意見もあり得るかなと思った。私の論のなかにおいては、それが六連発式拳銃でも人間でも、差はないと私は思っている。しかし、もう少し私の主張をわかりやすくするために、もう一つ、思考実験を考えてみた。「説明ー解釈ー撲殺型・人間ロシアンルーレット」である。*1

「説明-解釈-撲殺型・人間ロシアンルーレット(with バールのようなもの)」

参加者・用意する道具:
道具:

バールのようなもの(最初のロシアンルーレットにおける「弾丸」に相当)
・まったく別の種類の、簡単にそれぞれを識別できる写真6枚。うち1枚が「当たり」で、5枚は「外れ」。何が書かれているかは何でもいい。(ロシアンルーレットにおける「弾倉」に相当)

参加者:

バールのようなものを持って人を殴り殺す、解釈ー撲殺役(Interpreter)Iが1名(「拳銃」に相当)
・自発的な、自由意志をもったルーレット参加者(Entrant)E1〜E6が6名
・進行役(Manager)Mが一名(最初の例における「自然法則」(弾倉の摩擦力・重力・気温・天候…)に相当)

手順:

1)参加者E1〜E6には、六枚の写真の、どれが当たりか外れかは分からないようにする。

2)進行役Mは、解釈ー殺人役Iに、どれが「当たり」の写真を見せる。そしてこう言う。「この、写真が「当たり」だ。これから、E1~E6の六人が、お前のところにかわるがわるやってくる。それぞれが自分の選んだ写真についての説明をお前にするから、お前はそれが「当たりの写真」についての説明だと解釈できた時だけ、説明に来た奴を、バールのようなもので殴り殺せ。それ以外の場合は殺してはいけない。」

3)Iを別室に待機させて、MはE1〜E6の六人に、こう説明する。
「この六枚の中から一枚だけ、自分の気に入ったものを選んで、その内容を自分の言葉で説明できるまで覚えるように。覚えたかどうか私が確認して、確かに覚えていると分かったら、その内容を別室のIのところに行って、私にしたのと同じように説明する。その写真が「当たり」だと解釈すればIはお前をバールのようなもので殴り殺す。「外れの写真」と解釈したならばお前は生き延びる。」

4)各自の説明が伝わりにくいものでないか、Mがチェックし、合格したらIのところへ送り出す。

5)Iが、当たりの写真について説明していると思った者をバールのようなもので殴り殺すまで、6人は何度でもIの元に行って説明を繰り返す。

解説:

この思考実験で、全てが手順通りに行われた場合、つまりE1~6のうちの誰かがバールのようなもので殴り殺された時、E1~6には、「バールのようなもので殴り殺された責任」が、全くないだろうか。
私はE1〜6にもIにもMにも、「一人の死への責任」があると思う。1/6くらいは、死の蓋然性を引き受けていて、残りの5/6くらいを、他の参加者が引き受けていると思う。(こんなアホなゲームに参加している時点で死の責任があるという人もいるだろうが、それはまた別の話とする)

Kは、もちろん、E1~6に責任はないと思っている。引用しよう。

即ち読者が怒るか怒らないかは、文章の存在ではなく、読者自身の解釈の仕方如何で決まる
(ホームページ移転のお知らせ - Yahoo!ジオシティーズより)

従って、読み手である己の解釈の結果生じた怒りを書き手のせいにするのは筋違いである
(同上)

つまり、こういうことだ。
「IがEをバールのようなもので殴り殺すか殺さないかは、Eの選択と説明ではなく、I自身の解釈の仕方如何で決まる」
「従って、解釈ー撲殺役であるIの解釈の結果生じた死をE1~6が行った写真の内容説明のせいにするのは筋違いである」

つまり、Kの論によれば、E1~6は、誰もその死に責任を負わない。もちろん私はそう思わない。それは昨日のエントリ、つまり反・感情自己責任論の本論で既に述べたので、ここでは割愛する。

結び:

この思考実験は問題点を明確にするために行ったもので、理論の深化を図ったものではない。*2だが、とりあえず私の、Kの妙な論に対する違和感は収まったので、ここまでとする。私の違和感の原因は、「Kが責任逃れのために組み上げた屁理屈に、論理の衣をまぶして誤魔化していたこと」にあったのだと、明白になったからである。彼は、実際には自分の言いたいことを言い、それが自分の望んだように解釈されないと文句を言う。そもそも、私のツイートに対して@を最初に投げてよこしたのは彼であった。もし、解釈の責任が解釈者にあり、その解釈から発生した思考の責任もまた解釈者にあるとしたら、私のツイートを解釈した責任はKにあるし、そのツイートに対して「こいつを啓蒙してやろう」と思った責任もKにある。その勝手な解釈を元に、私に@を寄越して何かを言うなんて言語道断だろう。黙っているのが筋というものだ。*3

おまけ:

K氏の理論で、今でも興味深い点が一点あったのを思い出したので、少し考えてみた。結論としては、「気にしても意味なさそうだな」であった。

問題の箇所を引用する。:

表現者に責任があるとすれば「解釈者の反応」に対してではなく、「表現したことが原因で自らが被る不利益」に対してである。例えば表現後に周囲からの信頼を失った、など。勿論、解釈者の怒りの原因は解釈者にあるが、表現者が周囲から信頼を失った原因は表現者にある、ということになる
(引用元は同上)

これが正しければ、彼は、彼の行っている、Twitter上での意味のない活動に対する不利益を、一手に被らなければならない。彼はそれを引き受けているのだろうか。

ひょっとすると、Kの言う「責任」というのは、恐ろしく狭い範囲の「責任」について言っているのかもしれない。つまり、「撲殺すべき当たり写真についてEnが話していると"解釈をした責任"は"Iにある"」「説明の"結果としての死の責任"は「当たり写真」を選んで、その説明を行った"Enにある"」というものだ。それならばその通りだが、そんな範囲の狭い「責任」の概念をこねくり回して、一体どうしようというのだろう?責任があろうがなかろうが、同じようにEnはバールのようなもので殴られて死ぬのである。*4
ここから、私の自己責任で想像をたくましくしてみると、Kは、『「解釈そのものの責任が、解釈者に存在することを、解釈者は実際には理解していない」と俺は(はじめて)発見した!!』と考えているのではないか?言い換えれば、「俺は気づいたが、俺以外の人間は誰も、お前も、気づいていない!!!」ということだ。もしそうなら、自分の発明が「車輪の再発明」であることに本人ばかりが気づいていないことになる。実はほとんどの人間が気づいていることであるにもかかわらず。人間と言語の関係(≒解釈するものと解釈されるものの関係)は、大昔から研究されてきたことだ。様々な分野の学者達が、大変な量の思考を投入してきた・している・これからもするであろう問題である。少しでも先人達が重ねてきた研究を目にしたことのある人間なら、こんな当たり前のことを「発見」とは思わないので、可能性にすら気づかなかったが、もしかするともしかするので。*5

*1:分かる人には分かると思うが、実はこれ、「バールのようなもの」と書きたい一心で書いたものである。貴重な時間を無駄にしたと、今では反省している。

*2:よく見れば分かるように、「責任」の定義が緩い。まだまだ沢山考えられそうなことはある。

*3:彼の、「お前の解釈は誤解だが、俺の解釈は誤解じゃない」という論理展開は、超魔ゾンビに入ったザボエラを思い出させる。あれが現実に実行可能なら、私もザボエラは正しいと思うんだけど、実際にやると気持ち悪いことになる。

*4:今回は思考実験だから良いが、現実場面では、「解釈の責任」と「結果の責任」は、そう綺麗に別れないことも多いだろう。(個人でも、組織でも)それを分けることで、『「僕には責任はありません」と言える』以外の意味が何かあるのだろうか?ちなみに、法律では、「思考内容(つまり解釈内容)」に科される罰則はないので、言いわけには使えても、やはり実効性はない。法律が対象にするのは、「行動内容」(今回の例で言うならバールのようなもので殴り殺すこと)だけだろう。

*5:流石にこれはないと思うが…。