その時、自然言語は破綻したのか?

◇追記◇

本記事には最初の引用ツイートを誤読している点があります。本記事全体の整合性は失われていないと思っておりますが、「その時、自然言語は破綻したのか?」における私の誤読について - dosannpinnのメモ帳をご一読頂ければ、この誤読についてご理解いただけると思います。

◇事の起こりーー自然言語の破綻…破綻だって!?嘘だろ承太郎!!◇

先日、Twitterを眺めていると、おもしろいツイートが流れてきました。
これです。

自然言語が形式的な論理操作で破たんする有名な例。命題「叱られないと勉強しない」が真であれば、対偶「勉強すると叱られる」も真である。

これは、TLでなされていた議論の中で目にしたもので、文脈としては「数式と自然言語は違う」という文脈のなかで発言されたものです。*1
 その「数式と自然言語は違う」という主張は真っ当なものでした。*2ただ、ここで引かれた例において、「破綻」という表現は正しくないとも感じました。大雑把に見れば正しいのですが、虫眼鏡で拡大すれば実情は異なるという意味において少し異なるのです。
 この前のエントリと同じような、他人の揚げ足取りに読まれかねない記事になりそうで不安なのですが、そういうつもりはありません。*3
 でも、心配があります。これを読んだ、あまり自然言語に愛着のない人が誤解をすることです。「そうか、自然言語は論理学の考えかたに比べると矛盾の多いもんなんだな」と思われることです。そういうことがあると自然言語好きの俺、涙目…。
 そこで、ここでは重箱の隅をドリルで突っついて、虫眼鏡で拡大するとこの問題がどう見えるのかについて書いてみたいとおもいます。*4

◇先に結論◇

破綻するのは自然言語ではありません。自然言語と論理式の間で行われる人間の翻訳活動です。間違ったのは人間であって、言語ではありません。

証明っぽいもの

原主張: 命題「叱られないと勉強しない」が真であれば、対偶「勉強すると叱られる」も真である。


自然言語っぽく:
命題文P :「叱られないと勉強しない」
対偶文C: 「勉強をするならば叱られている」
偽対偶文F : 「勉強すると叱られる」


省略されている要素を見えやすく:
命題文P' :「XがYから先に叱られないならば、Xは後に勉強しない。」
対偶文C': 「Xが後に勉強をするならば、XはもうYから先に叱られている。」
偽対偶文F' : 「Xが先に勉強するならば、XはYから後に叱られる。」


抽象化した表現:
命題文P'':(¬A(先)→¬B(後))
対偶文C'':(B(後)→ A(先))
偽対偶文F'': (B(先)→ A(後))

注:(先)とは「時間的に先にある」ということ。(後)とは「時間的に後にある」ということ。

原主張ではPの対偶はFとした上で、これを矛盾だとします。しかし、Pの対偶はFではありません。故に、矛盾もありません。実際の対偶はCだからです。
 Pの対偶がCの時には主張に矛盾がありませんから、自然言語は破綻していないのです。

◇目的◇

◆本エントリの目的◆

1)自然言語は破綻していないと主張する
2)破綻したのは〈自然言語と論理式との翻訳〉であり、自然言語に破綻はないと主張する
つまり、自然言語の弁護です。

◆本エントリの目的でないもの◆

1)元発言者への揚げ足取りや非難
2)自然言語の優位性を説くこと
つまり、個人攻撃ではありません。*5
 また、自然言語を弁護はしますが、それが絶対的優越性を持つとは言いません。*6

◇準備◇

*注* ここから先は長大な重箱の隅つつきです。もう論点が飲み込めていて暇がない人はここで読むのをやめて問題ありません。

以下はここで使う言葉のまとめです。

今回話題にする文章を利用しやすいように分解し、名前をつけます。

原主張O: 命題「叱られないと勉強しない」が真であれば、対偶「勉強すると叱られる」も真である。
命題文P :「叱られないと勉強しない」
偽対偶文F:「勉強すると叱られる」

次に、原主張Oを整理します。

原主張Oの内容
1)命題文Pの対偶は偽対偶文Fである。
2)故に、命題文Pが真なら偽対偶文Fも真である。
3)しかし、命題文Pが真であっても偽対偶文Fが真とならない。
4)真となる命題の対偶が偽である。
5)これらのことから、自然言語の論理が破綻しているといえる。

さて、元引用ツイートが正しく見える理由ですが、おそらく、こんなふうに考えるからだと思います。

1)「叱られないと勉強しない。」 ⇔ (AでないならばBではない) ⇔ (¬A→¬B)
2)(¬A → ¬B)の対偶は(B → A)だ。
3)(B → A) ⇔(BであるならばAである)⇔ 「勉強すると叱られる。」
4)命題の対偶は常に真であるから、〈叱られないと勉強しない〉 が正しければ、〈勉強すると叱られる〉も正しい。
5)……あれ?おかしいぞ?

対偶が常に真というのは、古典論理学の話で、直観論理学だとそうとも言い切れない…という話はここではしません。よく知らないからです*7
 しかし、そんな高度な話を持ちださないでもこの主張は妥当ではありません。というのも、「時」への視点が抜けているからです。

◇本論◇

◆対偶じゃない!◆

やっと本論でど〜もすいません。(林家三平師匠風に)
 まあ、もう結論を先に書いちゃったんで、主張は伝わってると思うので、後は適当に読んで下さい。

 だいたい、日本語話者は日本語がものすごく上手いんです。*8ですから、日本語学習者なら混乱するような〈特殊な操作〉をしているのに、その操作をしていることにすら気づかないのです。
 原主張Oは偽対偶文Fを「対偶だ」と言っていますし、確かにそう思えるんです。でも、それは接続の助詞「と」と、助動詞「ない」が終止形で使われていることによる影響をすっかり忘れてしまった結果です。
 「ない」と、終止形で文章を言い切るというのは「現在」の表現だということです。*9英文法ふうに言えば「現在時制」です。「単純現在(simple present)」です。
 しかし名前から受ける印象とは違い、日本語の現在表現は、英語と同じように、「確定的な未来」も表します。以下に例を示します。

例:
「明日は雨ですよ。さっき天気予報で森田さんがそう言ってましたもん。」(「です」が確定的未来。)
「私の乗る電車は五分後に来ます。」(「ます」が確定的未来。)

そして、接続の助詞「と」は条件などを示す順接の表現です。これを使う時は時間的関係が「前に〜だと、後に〜だ。」といった関係も一般には示すのです。以下に例を示します。

・お前がバカだと、俺が悲しい。
*俺が悲しいと、お前がバカだ。

・国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
*雪国であると国境の長いトンネルを抜けた。

これらのことを考えて、論点が見えやすくなるように原主張が含んでいる性質を明示してみます。これは一例ですが、こんな感じになるのではないでしょうか。

〈原文〉
命題文P:「叱られないと勉強しない」
偽対偶文F:「勉強すると叱られる」

〈操作1〉
命題文P':「XがYから先に叱られないと、Xは後に勉強しない。」
偽対偶文F': 「Xが先に勉強すると、XはYから後に叱られる。」
加工中1:「Xが後に勉強すると、XはYに先に叱られる。」

〈操作2〉
真の対偶文C: 「Xが後に勉強をするならば、XはYから先に叱られている。」

まず、〈操作1〉で、時間的性質を示す「先に」「後に」を付け加えます。次に、〈操作2〉で前後の時間関係を縛り付ける「と」を外し、単純に法則的な条件を示す「ならば」に置き換えます。そして、現在の表現「叱られる」へ「ている」を付け加えます。〈先にもう叱られて現在は既に叱られた状態である〉ということを明示するためです。*10
 これで命題文Oの対偶を示す対偶文Cが完成します。
 自然言語として使うのならもうちょっと自然で分かりやすく

Cの自然な表現: 「X君が勉強するなら、それはYさんに叱られているからだ。」

のようになるでしょう。「勉強する」と「叱られている」の対比で時間関係は十分に示されます。

 他にもいろいろ細かい話*11はあります*12けれど、とにかく、こんなことは母語話者ならコンマ数秒でやっている処理なんです。いちいち文字にすると、このように読むのが大変になるのですけれど…。


ここまでの流れを、少し抽象的に書くとこうなります。

命題文P:(¬A(先)→¬B(後))
対偶文C:(B(後)→ A(先))
偽対偶文F: (B(先)→ A(後))

「先」や「後」という性質がAやBといった要素にくっつく(要素を修飾する)と、別のものになってしまうわけです。

◆対偶は…真だった。◆

さて、では完成した対偶の表現を見てみましょう。

命題文P' :「XがYから先に叱られないならば、Xは後に勉強しない。」
対偶文C': 「Xが後に勉強をするならば、XはYから先に叱られている。」

いかがでしょう?
 これ、正しいですよね?

◇おまけー大切なことは意識に見えないー◇

ここまで述べてきたとおり、「先」と「後」の属性がきちんと反転しないと、うまく対偶になりません。しかし、これはけっこう見えにくいです。
 その理由の一つは、自然言語の中で動き回っている「時」を表示するシステム――時制や相(tense and/or aspect)――が、おそらくもっとも根源的な部分で動いているというのがあります。根源的で複雑で難しいものだからこそ、その難しさを感じなくなるまで習熟しないと使いこなせないという意味です。
 実はこの記事、この時制と相について最初考えるつもりだったんですが、あまりにもテーマが巨大過ぎてどう切り出して語ればいいか全然分かりませんでした。というわけで、今回の記事が完成した次第であります。
 ちなみに「気づかない」のはある意味で正しいと思います。ムカデが歩き方を意識したら足がもつれて歩けなくなった…という寓話が示す通り、明示的に思考していては思考のリソースを使い果たしてしまう処理だから、母語話者は無意識に行うようになるのではないでしょうか。*13
 思うにですが、「いつも意識しなければならない」ような部分は、おそらくそこまで根源的ではないのです。いつも使う、いつも正しく使えないと困るもの――心臓の拍動や呼吸のようなもの――こそが、最も根源的なものではないでしょうか。*14

 この人間にとっての使い勝手という意味でも、また論理性という意味でも、自然言語は極めてうまく働いるのだと思います。いやまあ、私がそう信じたいだけなのですけれどね。自然言語は信頼のコード(佐藤信夫)だと思っているものですから、ちょっとやそっとの衝撃では破綻しないのだと私は信じたいんです。

◆破綻とは何だったのか◆

何故、元ツイートの例文の間のつながりが「破たん」して見えたのか。それは、元ツイートの文章では省略されている「時」の要素を読み手が知らずに組み戻し損ねた結果です。


◇履歴◇

2012/01/21: 公開
2012/01/21: 誤字訂正、「以下広告」周辺のネタを修正
2012/01/21: ◇準備◇の最後から一つ前の段落「対偶が常に真というのは、形式論理学の話で、直観論理学だとそうとも言い切れない」中の「形式論理学」は「古典論理学」であろうとの指摘をコメントで頂いたので修正。「直観論理も人工的形式や言語(≒論理式など)を使うなら形式論理に含まれるだろう」と感じられない今の素養ではこれが精一杯(カリオストロのルパン顔で花を出しながら)。
 よい勉強になりました。コメントを下さった id:oskimura さんに心より感謝、多謝、非常謝謝です!
2012/01/22: 引用したツイートを私が誤読している点があったので、この誤読についての解説記事へのリンクを文頭の◇追記◇へ掲載。
2012/01/23: 分かりにくい表現と誤字を修正
2012/11/20: 脚注に「(山田文法の活用表を使用)」と書いていたが、実際に山田文法かどうかはいまだに分からない。実態は知ったかの虚仮威し、そう、コケオドシであった。橋本文法(学校文法)じゃないかという気もするが、やはり分からない。触らぬ神に祟りなしということで、この記述は「(参考: 新明解国語辞典第六版と角川新国語辞典との巻末活用表等)」に改めた。玉虫色の解決策である。
2012/11/20: 本履歴欄の下にあったこの下に出る広告はステマですよというジョークを削除した。もうステマネタは時期外れだし、広告がいつもそこに出ているとは限らないようなので。

*1:ちなみに、この話は元になっていた議論の本筋ではぜんぜんなくて脇道にすぎません。本筋は「掛算の順番を入れ替えてもよいこと(交換法則など)を小学校で教えるべきだろう」というような議論です。

*2:この2つを同じと考えるのは、「C言語プログラミング言語)と日本語は同じもの」と言うよりも妙なことです。

*3:元発言の主は、問題の本質が分かった上で、便宜的に「破綻している」という表現を使ったのだと思いますし、実際、元発言の主も、その読者も、問題の本質は理解しているようでした。私の言うようなことはもう分かった上で、彼/彼女らは話をしていると思います。

*4:凝り性ですいません。

*5:「俺のほうが正しく物事を見抜いているぜぇェ〜ッ!ヒヒーッ!ホヘェラヘラ」という暇つぶしでもありません。

*6:論理結合子(∧や∨や⇒や¬)の切れ味は自然言語にはなかなか出せないし、数式のように「量」の概念を素早く正確に扱うことも自然言語は苦手だと思います。私は数学も論理学も素人なのですが、それでもスゴく見えます。

*7:お情けないったらありゃしない

*8:当たり前のことですが、多くの人は結構忘れるんですよ、これを。

*9:完了・過去を示す「〜なかった。」ではないわけで。

*10:細かく言うと、動詞「叱る」の未然形に受動を示す助動詞「れる」を加え、この「れる」を連用形に活用して「て」に接続、「て」が動詞「いる」に接続して完成。(参考: 新明解国語辞典第六版と角川新国語辞典との巻末活用表等)

*11:例えば、「後に勉強をするならば、先に叱られた。」としてもいいなあ、などと考えました。でも、〈「叱られる」ことが完了した状態が現在継続している〉という表現の「もう叱られている」のほうが私にはしっくり来ました。

*12:日本語は英語ほど過去時制がはっきりしていないので、 was や did のようにクッキリとした表現にならないと思ったのもあります。かつては過去の助動詞「き」というのがあったらしいんですが、今は完了と過去を「た」でまとめて表現しちゃうようです。過去の「き」はかなり鮮明に単純過去を示せるように思います。

*13:例えば、"Something might have been being done."のような表現を「意識しながら処理」するのは大変だと思います。意識したって分からないわけで…。

*14:そういうわけで、私は母語話者が良く間違える(つまり皮相的な)言葉遣いの誤りをあげつらう人が好きではありません。よく観察すると案外と本人も間違っていますし、私も間違っていたりします。逆に、本人が間違っていると気づいていない誤り(たとえば「てにをは」の誤りなど)は気になります。自分の誤りに気づいたときはとても恥ずかしいです。困ったことです…。