反・感情自己責任論 〜臆病な完全性への依存を超えて〜[プライベート][似非哲学][批判]

これは個人的な@やりとりから出てきたごく個人的なメモです。第三者が読むのはおすすめできませんし、面白さも保証できません。また、口調が大気圏を突き抜けるほど偉そうですが、これは素早く大量に書くために敬語を削り落とす必要があったからです。まあ私は普段から(偉くもないのに)偉そうな文を書くんですけれどね…。

序文:

筆者はTwitter上で感情自己責任論氏(以下 K)との対話を自己責任において続けているが、筆者はKが嫌いである。何だかものすごく怒っていた人によるとKはTwitterでも有名な粘着ユーザーらしい。@で話している間に一つKのアカウントが凍結された(凍結されたアカウントのgoogleキャッシュ)…が、新しくアカウントを獲得して@を飛ばしてきた。(鬼気迫る新規アカウント)こわい。*1
しかしK氏の独自理論*2は興味深い。理屈に一定の筋は通っているのに直観的に独善である。しかしどこが独善であるかは判然としないのである。長い間それについて自問自答しつつテキストを綴ってきたが、今、それが明確となり、やっとテキストも纏まった。これにてK氏への興味はなくなった。よっぽど面白い反証がない限り、この「感情を自己責任で引き受けて」心置きなくブロックしようと思っている。
 ちなみに、K氏の言うように「真実が一つでない」かは分からないが、筆者の論を絶対の真実だと主張する気はない。何を真実と捉えるかは、何が実際に真実であるかと関係なく、それを捉える人間の問題だろう。

批判対象:

本論において筆者が批判の対象としているのは以下URLにあるKの主張である。その他の論は対象としない。

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility

結論:

責任は不確定性を引き受ける。「解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotion Self-Responsibility Theory」は、不良の論である。不良の論であるとは、筆者の見解である。
 感情自己責任論は「責任」の概念を次のように定める。: 責任とは100%確実なこと、換言すれば同義反復に陥るような、ごく限られたものだけに適応されるとして満足する。(例:文章解釈をしている主体が文章解釈者であるから文章解釈者は文章解釈の「責任」を負う。)
 これは当たり前のことだ。そして、ある解釈を引き起こすことを予見できながら避けないなら、それは予見を半ば受け入れたということだ。「解釈は解釈者の責任のもとに行われる=お前が悪い、俺は悪くない」ということにはならない。
 また、責任の取り方というのは、感情自己責任論が想定するような振る舞いばかりとは限らない。例えば、「感情自己責任論」を少し読んで駄論だと目を逸らして黙るのは自己の感情への責任の取りかたの一つだ。一方で、書いた人間はバカに違いないと陰で嘲笑いながら適当にK氏と話を合わせて観察するのも感情への責任の取りかただろう。さらに、K氏のような面倒そうな人間をシャットアウト(Twitterならブロック)するのも責任の取りかたである。何て低劣な論なんだと不快に思いながら、全体に目を通してその欠点を考えてみることも、自分の感情への責任の取りかたである。感嘆の声を挙げて愚論に啓蒙されることが「責任の取りかた」とは限らない。

感情自己責任論の非妥当性に対して、筆者がより妥当であると挙げる「責任」の導きかたは以下の通りである。: 「責任」とは、ある主体の行動がもたらす蓋然性(確率)の内部に、その蓋然性の高低強弱に対応する形で存在する。例えば、発言者Sが、聞き手Lを怒らせるような発言Aをした場合、発言Aを理解できる者が一般的・平均的に発言Aから引き出し得る怒りを受ける蓋然性の高低*3が、「発言Aに対して発言者Sが引き受けるべき責任」の度合いである。

考察:

K氏の感情自己責任論は、こう考えるものである。

『発言者Sが、相手から怒りを買う発言Aをした場合、その責任は発言Aを「怒るに値する意味a」だと解釈した聞き手Lにある。言い換えれば、聞き手Lが怒るのは聞き手L自身の解釈の結果であり、発言者Sは発言Aに一切の責任を負わない。故に、聞き手Lからの負のフィードバック(怒り、暴力等)を受ける責任を基本的に負わない。(ただし(なぜか)聞き手Lが発言者Sへの信用を失うことは可とする。)』

筆者の反・感情自己責任論は、こう考えるものである。

『発言者Sが発言Aをした場合、発言者Sの責任Rは聞き手Lに怒りをもたらす意味aとして受け取られる蓋然性Pに基本的に比例する。言い換えれば、発言者Sは自分の行動が含む聞き手Lを怒らせる蓋然性に対応する量の責任を負う。(なお、聞き手Lが発言者Sへの信用を失うことも当然、発言者Sの責任に含まれる。)』

例:「ロシアンルーレット参加者は死の責任を負うか?」:

Kの理論では、ロシアンルーレットに参加して死んでも、参加者に被弾の責任はない。『参加者の順番が来た時、ちょうど弾丸発射されるかどうかは、弾倉を回転させられた銃と、自然界の各条件(気温、湿度、摩擦係数…)が勝手に決めること(≒聞き手Lが発言Aを受けた時に勝手に解釈すること)だから』である。

筆者の理論では、6発入る回転弾倉に1発弾が入っている(≒発言Aの蓋然性)なら、1/6に対応するだけの責任(≒1/6の確率で死ぬ)を、ロシアンルーレットの参加者は負う。参加者が知っていても知らなくても、参加者の行動は、それが引き起こす被弾の蓋然性を1/6だけ含んでいたからである。
 なお、この例において、「ロシアンルーレットに参加するかしないか」は論点にない。「参加した場合に負う責任」についてここでは論じた。

*2011/09/07、筆者追記:ロシアンルーレットの例えでは私以外の人間に分かりにくそうなので、もう一つ思考実験を考えてみた。こちらは話が見えやすくなるように心がけた。
新・ロシアンルーレット思考実験のエントリへ
ここの例についてもう少しだけ説明をしておくと、「弾倉を回転させた時、どこに弾が入った状態で止まるかは、加えられた力と銃と自然条件が決める ≒ 発言を受けた時その言葉をどう解釈するかは聞き手が決める」ということだ。

略語一覧

アルファベットで示した各種の用語が分かりづらいと思うので、ここに一覧としてまとめておく。

略語まとめ:

  • S = 発言者(Speaker)
  • L = 聞き手(Listener)
  • A = 相手を怒らせうる発言(Affront)
  • a = 発言Aに含まれる、相手を確実に怒らせる意味or解釈
  • R = 責任(Responsibility)
  • P = 発言Aがaと解釈されて相手を怒らせる確率(Probability: 蓋然性)=(a/A)
  • C = 例外的事項に対する補償(Compensation)

*注: 補償Cについてもう少し説明すると、例えば「SとLに行動などを強要する人や条件がある」場合、補償Cに0に近い値が入って責任Rも0に近づくということ。完全に外部的な要因を排除するための変数。

Kの感情自己責任論まとめ

0

R = C{L(P)}

考慮すべき「例外」は考慮されうる。例えば、先のロシアンルーレットの例で参加者がもし参加を強制させられたのなら補償Cには0に限りなく近い数字が入る。故に、SはAを行ってもLにおける意味aという解釈の責任を一切負わない。責任は(A→a)と解釈したLにある。
 ちなみに、Kの論では「発言Aを解釈する行動の責任が聞き手Lにある」だけである。「聞き手Lの責任のもとで聞き手Lが発言Aを解釈し、その結果として聞き手Lが発言者Sを信用しないことを選択した場合に発言者Sが被る不利益」は発言者Sの責任である。『「聞き手Lにおける発言Aの解釈の責任R」と、「その解釈が引き起こす不信用の責任R'」は別物である』とされる。

表現者に責任があるとすれば「解釈者の反応」に対してではなく、「表現したことが原因で自らが被る不利益」に対してである。例えば表現後に周囲からの信頼を失った、など。その結果感じる怒りは当然、それを感じる者当人にある

筆者の反・感情自己責任論まとめ

0

R = C{S(P)}+C'{L(1-P)}

また、考慮すべき例外は考慮されうる。故に、発言者Sは発言Aにおいて、発言Aが含む解釈aの割合、つまり蓋然性Pのぶんだけ責任を負う。聞き手Lは発言Aが平均として内包しない解釈a'をするなら、この「極端な解釈a'」としての責任を負う。自然言語における、「誤読」や、「勘違い」、「よく読め」といった非難が起こる時、この非難はP=0であるということを必ずしも意味しない(発言者の側に誤解を招く要素があったかも知れない)。しかし、誤解される蓋然性Pが非常に小さい(誤解の余地が少ない)から、逆に(1-P)が極端に大きくなる、だから聞き手Lの責任が極端に大きいという意味だと筆者は解釈する。

例えば、以下のようになる。

聞き手Lが悪い場合:

  • 発言者Sの発言Aが誤解を呼ぶ蓋然性Pが低く、0.01(1%)だったとする。
  • この時、聞き手Lが発言Aを誤解した場合、Lの責任は 1-0.01=0.99(99%) である。
  • この時、Lの責任は大きいから、「発言者Sの発言を良く聞け!」という非難が聞き手Lには向けられることになる。

発言者Lが悪い場合:

  • 発言者Sの発言Aが誤解を呼ぶ蓋然性Pが高く、0.99(99%)だったとする。
  • この時、聞き手Lが発言Aを誤解した場合、Lの責任は 1-0.99=0.01(1%) である。
  • この時、Lの責任は小さいから、「発言者Sの言いかたが悪い!」という非難が発言者Sには向けられることになる。

また、筆者の論では、「Aの解釈の責任Rと、それが引き起こす不信用の責任R'」はひとつづきである。なぜなら、Aの解釈aがその後の不信用を呼ぶものであり、逆はない。二者の間に明快な前後関係が観察されるからである。

本論:

「尊大に、しかし謙虚に、不確定の世界を生きることは、誠意である。」

考察で述べたように、筆者は、明確に感情自己責任論とは異なる立場を取る。ここでは仮に反・感情自己責任論と、対立を明確にする名称をとったが、本来であれば「穏当相互責任論」とでも名乗ったであろう。
 感情自己責任論の問題点は、不確実性から逃げ出して完全性へ執着した結果としての、世界そのものと直面する勇気、および誠意の不在である。世界に絶対の法があるとして、それは現在の人間の情報処理能力や各種技術では到底容易には扱えないものであるし、到達もできないものである。そうであると同時に、逃げ出すことが許されないものである。

筆者は、真理の理論(何を正しいと考えるかについての哲学的立場)において、「整合説」の立場を取る。(ある物事が、他の観察された結果、理論、現象などと矛盾なく存在できる時、その物事を真と考える。*注:対義語は「対応説」。(この世にはイデア的な絶対の真理があり、それと対応しているか否かで物事を真か偽か判断する))故に、整合性を検証できない事柄は、真かもしれないし、偽かもしれないが、それを確かめることはできないとする。つまり、本論考察で述べた「責任」を、厳密正確に計測することは、人間である以上、不可能である。
 しかし、人は有史以前より、不確実性と対面してきた。自然の不確定性から確定的な法則を抽象し、体系化し、伝承して、今日の人類の発展はある。不確実性を正面から引き受け、有限たる人の身に及ぶ範囲で力をつくすことこそ、人間理性の素晴らしさ、人間の勇気の素晴らしさ、人間讃歌である。知らないものを「知らない」と認め、先へ進む意志こそが進歩を引き出すのである。
 「それは私がした解釈ではないから、私の責任ではありません」というのは、不確実で計測困難な、「他者」という存在の重さや恐ろしさ、難しさから、完全に逃げ出す敗北である。人間理性の死と言えばやや言葉が過ぎるが、筆者にはそれに限りなく近い悪徳に思えてならない。知的怠慢である。この世は不確定である。他者は未確定である。言葉の意味は確定しない。故に我々は努力をし、故に行為の結果が理不尽なものにならぬよう、日々を生きるのである。

言葉ーもっと大きく言えば記号は、その本質に虚偽性を含む。否定の言辞(例:Tではない)が存在するということは、実際(Tである)と反対のことを言えることを意味する。言葉は不確定なものであり、受け手が解釈するまで未確定である。
 しかし、その虚偽性故に、人類は「不確定なことがら」つまり、あるのかないのか分からないもの、正しいのか間違っているのかわからないものを深く見つめ、その内部に存在する「可能性」を見出してきた。それは時に失敗し、時に欺瞞を生んだが、同時に後の世代に学んだ事柄を託すことを可能とし、答えの容易には得られない課題を考え続けることを許した。つまり、発展を許したのである。科学技術は、言語の未確定性がなければ存在しなかっただろう。(帰無仮説の処理、背理法は、まさに否定の言辞における、有用性の証明だ)無知の知とは、痛みを知ってなお進もうとする、野卑さの裏返しである。(無知だからもうこれ以上知らなくていいとも、自分の知らないことに口を挟んではいけない、ともしない。ソクラテスの弟子達は後世に残る多くの研究と発見を残したではないか。無知を引き受けた上で、前へと進んだからであろう。)
 それだけではない。言語に存在する未確定性の底辺、最下部を、細いが確実に「最低限度の信頼」が流れている。母語話者同士が対面した時、双方の会話は通じないことが多いにも拘わらず、我々は「最低限度これは通じる」という、かけがえのない信頼の中にあることを疑わない。口汚く罵り合う敵味方であってもこの最低限度の信頼を持っているのだ。相手を傷つけることを最低限信頼できない罵倒の言葉には罵倒語としての価値が薄い。

さて、感情自己責任論とは、逃避である。自己責任という名の殻に引きこもり、不定形の世界から、清い、安心できる完璧へ逃げ出す。「それは私が言った言葉ですがあなたが解釈しなければその意味にはなりません。よってその意味も全てあなたの責任で、私は自分の発言に関して完全に無責任です。」というのは「感情自己責任論」というより、「行動自己無責任論」である。

では、手酷く有害な「解釈違い」を、もし「何とかしたい」場合、どうするればいいのか。答えはやはり不確定だ。だが筆者の意見を言うなら、「信頼」である。
 精神分析医は、患者のもつ防衛機制が害になっている時「それは防衛機制である」と指摘する。だがそれは無責任に放り投げるだけの言葉ではない。精神分析医もまた防衛機制を働かせ、投影し、合理化し、逆転移*4し、反動形成する。ただの人である。「解釈違い」をおかすのである。その不完全性を引き受け戦う。正確で公平な観察能力を養うために何年も体系的で専門的な訓練を行う。これが10年を超えることもまれではないそうだ。*5彼らはこの訓練期間を経ているから、患者から信頼を得られるのだろう。私は精神分析の効かないOCD患者であるから、正直、あまり精神分析を信用していないが、それでもこの姿勢は素晴らしいと思う。
 また、臨床心理*6に携わるカウンセラー達、たとえば非支持的カウンセリングを行うロジャース派の人々であっても、やはりスーパーバイザーの指導のもと、時に10年に及ぶ専門的訓練を重ねるのである。彼らはさらに、ラポール*7(治療者と患者間の望ましい信頼関係)の構築に力を尽くし、そのための努力を今日も続けているという。これもまた不確定性を引き受けない人間にできることではない。「他人は、自分をどう見ているのだろうか?」という根源的な不確定性を全て「投影」と名付けて直視しない者に光は差さない。不確定性の恐怖と闘いながら他者の世界への門を叩くものにこそ、光は差すのである。

K氏には、ぜひ、フォロー数0の、アイコンはデフォルトのままの、プロフィールには何も記入のない、HPには広告だらけの、信用ならない姿を卒業して来てもらいたいと思う。ここでは強く批判したが、私は、K氏の哲学的思索の能力はけっこう高いと考えている。ならば、その狭いドグマの檻から出れば大変な力を発揮できるのではないかと思う。だからこそ、リプライを受けた時に即ブロックを避けて(意図を測るために辛辣な口調を使ったが対話を続けたのである。K氏流に言えばそれは私の「投影」だかなんだかなのかも知れないが、私はそれを正しいとは全く思わない。私には投影を正確に検出するだけの訓練の蓄積がないから真か偽か判断ができない。何より、私にはその手の素養がさしてないのである。
 ちなみに、K氏が私の言うことを完全無視しても、それはそれであり得べき世界の運行である。大体のことは不確実性の雲の中であり、それを引き受けることが「責任」である。

欄外(上記論とは切り離された話として)

ちなみに、K氏の論には、本論で指摘した以外の場所に、大きな矛盾点がある。全てを指摘する必要を感じないので最初に目についた1つを指摘するに留める。

「自殺に追いこまれるほど虐めた場合、いじめっこが悪い」という主張が、感情自己責任論と矛盾する。(いじめその他人権侵害に関するよくある勘違い):

「自殺の原因」が無くても「自殺するほどまで精神的に追い詰めた原因」はいじめた者にあり、道義的責任は免れない。(感情自己責任論より)

私も同意見ではあるが、「感情自己責任論においては」、「ある物事の解釈は、解釈者が100%の責任を負う」のであるから、「いじめ」という現象を「自殺するしかないもの」と解釈したいじめられっこと「こいつをいじめていいんだと世界を解釈したいじめっ子」の、双方が「100%悪い」ことになってしまう。この点は先の穏当相互責任論(反・感情自己責任論)では述べなかったが、実は、考え方によっては、解釈というのは一方通行ではない。相互が相互の主観で勝手に行い、その結果が現世で激突するものなのだ。
「いじめて殴られても翌日そんなことは忘れてしまえばよい。肉体的負傷の痛みも筋肉痛だと解釈すればよいのである。」と言ってもいい。そうすればいじめという概念が地上から消滅し、いじめっこがいじめられっこを殴るが、それは双方共に「いじめではない」という、およそ我々の直観を超越した新世界が誕生する。すべては解釈次第というのはそういうことだ。「肉体的反応には解釈が介在しない」とKは述べていた気もするが、脳科学の成果が出ているこの時代、詭弁でしかない。脳は肉体の信号も錯覚できる(例:幻肢やヒステリー)。故にダブルスタンダードである。
筆者の穏当相互責任論(反・感情自己責任論)を取れば、いじめとは本来あるべきP(いじめられっ子を虐めて良いという解釈の存在可能性)から逸脱していることである。本来いじめて良い人間など、そうそういるものではない。つまり正統なP(つまり、(1-P))をうまく定めて尊守できれば、いじめは減ってゆくという解釈になる。ただし「本来的にあるべきいじめ」などというものが存在する場合は別の話になる。あまり想像したくないが。

更新履歴

2011/09/07 23時09分:最初にある注意文と考察内ロシアンルーレット関連部分に追記・誤字修正
2012/08/07-2012/08/08: コメントを頂いたのをきっかけに、読み返して読みづらい点を修正した。詳細は更新履歴 - dosannpinnのメモ帳にある。
2012/08/12: 句読点の訂正。脚注の追加。
2012/08/12: 何が悪かったのか、編集中に記事がずいぶん前の内容に巻き戻ってしまった。なるべく元に戻したが、いくつかの脚注が失われたので日時入りで書きなおした。
2012/08/24: 「本論」中でプラトンソクラテスを混同していた。プラトンソクラテスと修正した。
2012/09/04: 更新履歴が肥大化していたので、新エントリ「更新履歴 - dosannpinnのメモ帳」を作成して長い記述はそちらに移した。
2012/09/04: 「ここでは強く批判したが、私は、K氏の哲学的思索の能力はけっこう高いと考えている。英語も私より良くできる。」から「英語も〜」を削除した。この部分の脚注も削除した。詳細は更新履歴 - dosannpinnのメモ帳にある。

*1:2012/08/12記: その後、こちらも凍結されたようだ。貰ったコメントによると、今はアメーバのほうで頑張ってしまっているらしい。

*2:2012/08/12記: 独我論かと思ったら全然そうではなかった。

*3:簡単に言えば、Aと言ったら怒られるだろうと予測できる度合い

*4:これが、私がK氏へ出した謎掛けの第一の答え。分析医の大敵である。

*5:これもK氏に出した謎掛けの答え。専門的訓練を積んでいない人間には何が投影で何が投影でないかを指摘する資格がない。私が投影と言おうがK氏が投影と言おうが、それはただ言っているだけのことだ。しつこくて声がデカイやつが勝ち、面倒になって言い返すのをやめたほうが負ける「無限それは投影だゴッコ」である。

*6:私は投影=精神分析の理論だと言ったが、会話を続けるうちに「ひょっとして、臨床心理学の世界で使う「投影」の概念か?」と思った。そこで、「時に、あなたの言う心理学って、何心理学です?」と聞いてみたわけだが、答えはなかった。何故全ての感情を引き受けるたくましい精神の持ち主であるKが、自分の無知の知と向き合えないのか。とてももったいないことだ。; 2012/08/12追記: 自らの無知に向き合えないのに「無知の無知」(感情自己責任論より引用)とはよく言ったもので、K氏の感情自己責任論は、K氏の願望を映す鏡なのだろう。

*7:2012/08/12追記: これもK氏と私には「投影」がどうのといった話をできない理由である。K氏と私の間にはラポールなどない。