「その時、自然言語は破綻したのか?」における私の誤読について

この記事は、先日の記事(その時、自然言語は破綻したのか?)への一種の訂正記事です。
 第三者にとっては些細なことかもしれないと思ったのですが私にとっては重大なことに思えましたから、記事にすることにしました。

◇ウェルカム新解釈、グッバイ旧解釈◇

◆新解釈さん、いらっしゃ〜い◆

先の記事で話の起点として引用したツイートに、私の誤読があったようなのです。
 先の記事が書き上がった後、記事の起点にさせてもらったネイルさんに記事を書いた事と記事のURLを知らせましたら、次のようなお返事を頂きました。

あの二つは、自然言語の意味を読み取らずに形式的な操作をするのは無意味という例でした。(テキスト)パターンマッチングの落とし穴ですね。その二つは受け売りでも、私の発言責任は持ちます。何かありましたら、ご連絡を。

この堂々としたリプライを読んで、はたと気づきました。私とネイルさんの間には、「自然言語が破綻する」という言葉の読みかたに差があるのです。
 文章解釈というのはこだわればこだわっただけ多様化しますから、完璧に明確にすることは難しいものです。しかし、この差は明らかにすることができるくらい明確なものに思えました。
 人様の発言をネタにしたのですから、責任をもってきちんとこれを考えてみたいと思います。

◆端的な、あまりに端的な差◆

では、どこに「解釈の差」があったのか。それを明らかにするために、もう一度、起点であったツイートに戻ってみます。

原発言:
自然言語が形式的な論理操作で破たんする有名な例。命題「叱られないと勉強しない」が真であれば、対偶「勉強すると叱られる」も真である。

この文章、一見すると「多様な」解釈のしかたはないような気がしますが、私とネイルさんの解釈はおそらくかなり違います。

違いを手っ取り早く理解するために、原発言の前後に細工をして、その特徴を極端にしてみました。以下のとおりです。

ネイルさんの(ものと思われる)解釈N:
自然言語(で書かれた次の例文の解釈が)、形式的な(ようで実は誤った)論理的操作で(、つまりはただの誤った操作のせいで、)破たんする有名な例。(……)

私の解釈M:
自然言語(のもつ法則性)が(論理学的には正しい)形式的な論理的操作(を正当に行ったにもかかわらず、自然言語の非論理性のせい)で破たんする有名な例。(……)

いかがでしょう。
 解釈Mに従って私は先の記事を書きました。解釈Mも不自然ではないと思います。ですが、上の解釈Nも妥当な解釈で、頂いたリプライの内容を組み合わせて考えた時は解釈Nのほうがより正しいと私は考えます。

◆誤読プギャーw じゃあ前記事は無駄だった……わけではない。◆

以上で私の誤読ぶりは証明されてしまったような気がします。本当にネイルさんには申し訳ないことです。
 ただ、この解釈の差は、先の記事における命題の真偽を裏返すようなものではないと思います。なぜかと言えば、前記事の主題が「破綻したのは〈自然言語と論理式との翻訳〉であり、自然言語に破綻はないと主張する」ことだったからです。*1私の言った「破綻」とネイルさんの言った「破たん」は、別のものについての「ハタン」でした。ネイルさんの言った意味での「破たん」は存在したわけですが、私のいう意味ので「破綻」は(ネイルさんの視点から見ても)結局のところ存在しないのです。この点においてネイルさんと私の意見が違わないのならば、前記事を撤回するほどの必要はないように思います。

◇結論◇

前記事にこの記事へのリンクを入れて、誤読のフォローにしたいと思います。
 ともあれ、誤読ひとつから一本の記事が書けてありがたいことだとも思いました。
 ネイルさん、申し訳ありませんでした。そして改めて感謝いたします!

◇追記◇

ネイルさんにこの記事のURLを知らせたら、以下のありがたい返事を頂きました。

(…)確かに私は前者N解釈寄りで発言しましたが、後者M解釈と受け取っても妥当だと思います。これもまた、自然言語の持つ特徴だろうと考えます。仮にもしM解釈の主張だけだとしても、自然言語がそれで非難される理由は少しも無いとも思います。

やっぱり誤読だった!
 ただ、ネイルさんも仰っている通り、このあたりの解釈の緩さが自然言語くさくて面白くもあるところだったりもします。
 言葉とは奥深いものですね…。*2

◇履歴◇

2012/01/22: 公開
2012/01/22: ネイルさんに記事の感想を頂いたので、それについて書いた◇追記◇を追加。
 ネイルさん、ありがとうございました!
2012/01/25: 誤字訂正
2012/02/21: 表現の微修正
2012/03/12: 段落切りの修正
2012/03/13: 表現の微修正

◇以下広告(≒無料ユーザーの悲しみ)と脚注◇

*1:前記事「目的」の項を参照

*2:細かいことをいうと「自然言語」という語句を、解釈Nは〈提喩 (シネクドキ: synecdoche)〉っぽく、解釈Mは〈換喩 (メトニミー: metonymy)〉っぽく捉えているということになる…と言えたりもするかもしれません。ただ、それを書こうとすると大変なので、また機会があったらという方向で。

その時、自然言語は破綻したのか?〜英語編〜

◇もう一つの破綻◇

本エントリは、先日書いたエントリその時、自然言語は破綻したのか?の続きみたいなものです。
 実は、先の記事の元ネタを下さった方*1が、英語においても同じように自然言語の論理的構造が破綻する(ように見える)というネタもツイートされていたのです。

英語の三段論法超有名破たん例。Nothing is better than my wife. A penny is better than nothing. Therefore, A penny is better than my wife.

というわけで、これにもちょっと説明を加えてみたいと思います。有名なネタらしいので分かっている人は分かっているネタだとは思ったのですが、もののついでということで一つ、お相手下さいますと嬉しく思います。
 先のネタに比べると、こちらは先の日本語の例ほどは難しくありません。いやまあ、英語を読むのは大変なんですけれど、理屈としては単純です。ですから、今回はそんなに長文になりません。

◇図解でわかる二つのNOTHING◇

直感的に概念を説明するのが難しいので、ペイントで下手な図を描いてみました。これでだいたい言いたいことは伝わると思うんですけれど、いかがでしょう?

(注: 画像の文字が読みにくいばあいは、画像をクリックするとマシになるかもしれません。)

◆Nothing does not always mean complete nothing, emptiness nor void.◆

*注*上の図で大体言いたいことは書いちゃったんで、「もう分かったよ」という方は結論へどうぞ。

"Nothing is better than my wife."における"nothing"(以降N1と呼ぶ)と"A penny is better than nothing."における"nothing"(以降N2と呼ぶ)は別の領域で"nothing"です。同じ〈無〉でも何が〈無〉なのかによって正反対の性質をもつということです。これは日本語でも同じで、似たような表現に「無上」と「無下」があります。*2
 N1は、〈上〉という領域における〈無〉です。日本語で言えば〈無上〉〈それ以上がない〉ということです。
 「私の妻は無上の人である」と言うために、「妻以上の存在はありません」という言い回しを採用したのがN1を含む文です。妻の上がないから妻が最上(the best)にあるのです。一方で下はあります。妻が最上にいるのですから、妻に並んで立つもの以外はすべて〈より下にある〉ことになります。
 〈無上〉にして〈有下〉、これがN1の正体です。
 一方、N2は、〈下〉という領域における〈無〉です。日本語で言えば〈無下〉〈その下がない〉ということです。0です。空集合です。
 「1ペニーとは、0ペニーよりも多くのペニーが存在していることです。なぜなら0ペニーはいかなるペニーも含まないからです。」と言っているのがN2を含む文です。無には下がないから、無こそが最下(the worst)にあたります。一方で上はあります。存在すれば上なのですから無に並んで立つもの以外は全てが上になります。
 〈無下〉にして〈有上〉、これがN2の正体です。

◇結論◇

この例でも、破綻したのは自然言語ではありません。同じ"nothing"という単語に目が眩んで、ついつい2つの"nothing"、N1とN2を混同してしまう私達の〈解釈〉がこんがらかった結果、誤った推論を正しい推論と感じてしまうのです。
 同じ語がまったく別の振る舞いをするのは、別に不思議なことじゃないでしょう。出費が〈ない〉のはことによると嬉しいかもしれませんが、金が〈ない〉のは悲しい…というのと同じことですから。

最終的に、こういうことになります。

無とは一体…うごごごご!

That was a joke. HAHA.

履歴

2012/01/21: 公開
2012/01/21: 「…先の記事の元ネタを(私が不遜にも勝手に)もらった方〜」という表記が意味わからんので、「…先の記事の元ネタを下さった方〜」へ変更し、論旨を脚注へ明記。
2012/01/23: 誤字訂正
2012/02/21: 表現の微修正(読点の変更など)


あわせて読みたい、とは言わないけれど読んでくれると私が嬉しい記事

その時、自然言語は破綻したのか?

脚注と広告(はてなが勝手に入れる広告)

*1:実際は私が勝手に、不遜にも引用しているだけです。(ネイルさん、もうしわけありません。)

*2:むしろ漢文じゃね?というツッコミはご勘弁下さいw

その時、自然言語は破綻したのか?

◇追記◇

本記事には最初の引用ツイートを誤読している点があります。本記事全体の整合性は失われていないと思っておりますが、「その時、自然言語は破綻したのか?」における私の誤読について - dosannpinnのメモ帳をご一読頂ければ、この誤読についてご理解いただけると思います。

◇事の起こりーー自然言語の破綻…破綻だって!?嘘だろ承太郎!!◇

先日、Twitterを眺めていると、おもしろいツイートが流れてきました。
これです。

自然言語が形式的な論理操作で破たんする有名な例。命題「叱られないと勉強しない」が真であれば、対偶「勉強すると叱られる」も真である。

これは、TLでなされていた議論の中で目にしたもので、文脈としては「数式と自然言語は違う」という文脈のなかで発言されたものです。*1
 その「数式と自然言語は違う」という主張は真っ当なものでした。*2ただ、ここで引かれた例において、「破綻」という表現は正しくないとも感じました。大雑把に見れば正しいのですが、虫眼鏡で拡大すれば実情は異なるという意味において少し異なるのです。
 この前のエントリと同じような、他人の揚げ足取りに読まれかねない記事になりそうで不安なのですが、そういうつもりはありません。*3
 でも、心配があります。これを読んだ、あまり自然言語に愛着のない人が誤解をすることです。「そうか、自然言語は論理学の考えかたに比べると矛盾の多いもんなんだな」と思われることです。そういうことがあると自然言語好きの俺、涙目…。
 そこで、ここでは重箱の隅をドリルで突っついて、虫眼鏡で拡大するとこの問題がどう見えるのかについて書いてみたいとおもいます。*4

◇先に結論◇

破綻するのは自然言語ではありません。自然言語と論理式の間で行われる人間の翻訳活動です。間違ったのは人間であって、言語ではありません。

証明っぽいもの

原主張: 命題「叱られないと勉強しない」が真であれば、対偶「勉強すると叱られる」も真である。


自然言語っぽく:
命題文P :「叱られないと勉強しない」
対偶文C: 「勉強をするならば叱られている」
偽対偶文F : 「勉強すると叱られる」


省略されている要素を見えやすく:
命題文P' :「XがYから先に叱られないならば、Xは後に勉強しない。」
対偶文C': 「Xが後に勉強をするならば、XはもうYから先に叱られている。」
偽対偶文F' : 「Xが先に勉強するならば、XはYから後に叱られる。」


抽象化した表現:
命題文P'':(¬A(先)→¬B(後))
対偶文C'':(B(後)→ A(先))
偽対偶文F'': (B(先)→ A(後))

注:(先)とは「時間的に先にある」ということ。(後)とは「時間的に後にある」ということ。

原主張ではPの対偶はFとした上で、これを矛盾だとします。しかし、Pの対偶はFではありません。故に、矛盾もありません。実際の対偶はCだからです。
 Pの対偶がCの時には主張に矛盾がありませんから、自然言語は破綻していないのです。

◇目的◇

◆本エントリの目的◆

1)自然言語は破綻していないと主張する
2)破綻したのは〈自然言語と論理式との翻訳〉であり、自然言語に破綻はないと主張する
つまり、自然言語の弁護です。

◆本エントリの目的でないもの◆

1)元発言者への揚げ足取りや非難
2)自然言語の優位性を説くこと
つまり、個人攻撃ではありません。*5
 また、自然言語を弁護はしますが、それが絶対的優越性を持つとは言いません。*6

◇準備◇

*注* ここから先は長大な重箱の隅つつきです。もう論点が飲み込めていて暇がない人はここで読むのをやめて問題ありません。

以下はここで使う言葉のまとめです。

今回話題にする文章を利用しやすいように分解し、名前をつけます。

原主張O: 命題「叱られないと勉強しない」が真であれば、対偶「勉強すると叱られる」も真である。
命題文P :「叱られないと勉強しない」
偽対偶文F:「勉強すると叱られる」

次に、原主張Oを整理します。

原主張Oの内容
1)命題文Pの対偶は偽対偶文Fである。
2)故に、命題文Pが真なら偽対偶文Fも真である。
3)しかし、命題文Pが真であっても偽対偶文Fが真とならない。
4)真となる命題の対偶が偽である。
5)これらのことから、自然言語の論理が破綻しているといえる。

さて、元引用ツイートが正しく見える理由ですが、おそらく、こんなふうに考えるからだと思います。

1)「叱られないと勉強しない。」 ⇔ (AでないならばBではない) ⇔ (¬A→¬B)
2)(¬A → ¬B)の対偶は(B → A)だ。
3)(B → A) ⇔(BであるならばAである)⇔ 「勉強すると叱られる。」
4)命題の対偶は常に真であるから、〈叱られないと勉強しない〉 が正しければ、〈勉強すると叱られる〉も正しい。
5)……あれ?おかしいぞ?

対偶が常に真というのは、古典論理学の話で、直観論理学だとそうとも言い切れない…という話はここではしません。よく知らないからです*7
 しかし、そんな高度な話を持ちださないでもこの主張は妥当ではありません。というのも、「時」への視点が抜けているからです。

◇本論◇

◆対偶じゃない!◆

やっと本論でど〜もすいません。(林家三平師匠風に)
 まあ、もう結論を先に書いちゃったんで、主張は伝わってると思うので、後は適当に読んで下さい。

 だいたい、日本語話者は日本語がものすごく上手いんです。*8ですから、日本語学習者なら混乱するような〈特殊な操作〉をしているのに、その操作をしていることにすら気づかないのです。
 原主張Oは偽対偶文Fを「対偶だ」と言っていますし、確かにそう思えるんです。でも、それは接続の助詞「と」と、助動詞「ない」が終止形で使われていることによる影響をすっかり忘れてしまった結果です。
 「ない」と、終止形で文章を言い切るというのは「現在」の表現だということです。*9英文法ふうに言えば「現在時制」です。「単純現在(simple present)」です。
 しかし名前から受ける印象とは違い、日本語の現在表現は、英語と同じように、「確定的な未来」も表します。以下に例を示します。

例:
「明日は雨ですよ。さっき天気予報で森田さんがそう言ってましたもん。」(「です」が確定的未来。)
「私の乗る電車は五分後に来ます。」(「ます」が確定的未来。)

そして、接続の助詞「と」は条件などを示す順接の表現です。これを使う時は時間的関係が「前に〜だと、後に〜だ。」といった関係も一般には示すのです。以下に例を示します。

・お前がバカだと、俺が悲しい。
*俺が悲しいと、お前がバカだ。

・国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
*雪国であると国境の長いトンネルを抜けた。

これらのことを考えて、論点が見えやすくなるように原主張が含んでいる性質を明示してみます。これは一例ですが、こんな感じになるのではないでしょうか。

〈原文〉
命題文P:「叱られないと勉強しない」
偽対偶文F:「勉強すると叱られる」

〈操作1〉
命題文P':「XがYから先に叱られないと、Xは後に勉強しない。」
偽対偶文F': 「Xが先に勉強すると、XはYから後に叱られる。」
加工中1:「Xが後に勉強すると、XはYに先に叱られる。」

〈操作2〉
真の対偶文C: 「Xが後に勉強をするならば、XはYから先に叱られている。」

まず、〈操作1〉で、時間的性質を示す「先に」「後に」を付け加えます。次に、〈操作2〉で前後の時間関係を縛り付ける「と」を外し、単純に法則的な条件を示す「ならば」に置き換えます。そして、現在の表現「叱られる」へ「ている」を付け加えます。〈先にもう叱られて現在は既に叱られた状態である〉ということを明示するためです。*10
 これで命題文Oの対偶を示す対偶文Cが完成します。
 自然言語として使うのならもうちょっと自然で分かりやすく

Cの自然な表現: 「X君が勉強するなら、それはYさんに叱られているからだ。」

のようになるでしょう。「勉強する」と「叱られている」の対比で時間関係は十分に示されます。

 他にもいろいろ細かい話*11はあります*12けれど、とにかく、こんなことは母語話者ならコンマ数秒でやっている処理なんです。いちいち文字にすると、このように読むのが大変になるのですけれど…。


ここまでの流れを、少し抽象的に書くとこうなります。

命題文P:(¬A(先)→¬B(後))
対偶文C:(B(後)→ A(先))
偽対偶文F: (B(先)→ A(後))

「先」や「後」という性質がAやBといった要素にくっつく(要素を修飾する)と、別のものになってしまうわけです。

◆対偶は…真だった。◆

さて、では完成した対偶の表現を見てみましょう。

命題文P' :「XがYから先に叱られないならば、Xは後に勉強しない。」
対偶文C': 「Xが後に勉強をするならば、XはYから先に叱られている。」

いかがでしょう?
 これ、正しいですよね?

◇おまけー大切なことは意識に見えないー◇

ここまで述べてきたとおり、「先」と「後」の属性がきちんと反転しないと、うまく対偶になりません。しかし、これはけっこう見えにくいです。
 その理由の一つは、自然言語の中で動き回っている「時」を表示するシステム――時制や相(tense and/or aspect)――が、おそらくもっとも根源的な部分で動いているというのがあります。根源的で複雑で難しいものだからこそ、その難しさを感じなくなるまで習熟しないと使いこなせないという意味です。
 実はこの記事、この時制と相について最初考えるつもりだったんですが、あまりにもテーマが巨大過ぎてどう切り出して語ればいいか全然分かりませんでした。というわけで、今回の記事が完成した次第であります。
 ちなみに「気づかない」のはある意味で正しいと思います。ムカデが歩き方を意識したら足がもつれて歩けなくなった…という寓話が示す通り、明示的に思考していては思考のリソースを使い果たしてしまう処理だから、母語話者は無意識に行うようになるのではないでしょうか。*13
 思うにですが、「いつも意識しなければならない」ような部分は、おそらくそこまで根源的ではないのです。いつも使う、いつも正しく使えないと困るもの――心臓の拍動や呼吸のようなもの――こそが、最も根源的なものではないでしょうか。*14

 この人間にとっての使い勝手という意味でも、また論理性という意味でも、自然言語は極めてうまく働いるのだと思います。いやまあ、私がそう信じたいだけなのですけれどね。自然言語は信頼のコード(佐藤信夫)だと思っているものですから、ちょっとやそっとの衝撃では破綻しないのだと私は信じたいんです。

◆破綻とは何だったのか◆

何故、元ツイートの例文の間のつながりが「破たん」して見えたのか。それは、元ツイートの文章では省略されている「時」の要素を読み手が知らずに組み戻し損ねた結果です。


◇履歴◇

2012/01/21: 公開
2012/01/21: 誤字訂正、「以下広告」周辺のネタを修正
2012/01/21: ◇準備◇の最後から一つ前の段落「対偶が常に真というのは、形式論理学の話で、直観論理学だとそうとも言い切れない」中の「形式論理学」は「古典論理学」であろうとの指摘をコメントで頂いたので修正。「直観論理も人工的形式や言語(≒論理式など)を使うなら形式論理に含まれるだろう」と感じられない今の素養ではこれが精一杯(カリオストロのルパン顔で花を出しながら)。
 よい勉強になりました。コメントを下さった id:oskimura さんに心より感謝、多謝、非常謝謝です!
2012/01/22: 引用したツイートを私が誤読している点があったので、この誤読についての解説記事へのリンクを文頭の◇追記◇へ掲載。
2012/01/23: 分かりにくい表現と誤字を修正
2012/11/20: 脚注に「(山田文法の活用表を使用)」と書いていたが、実際に山田文法かどうかはいまだに分からない。実態は知ったかの虚仮威し、そう、コケオドシであった。橋本文法(学校文法)じゃないかという気もするが、やはり分からない。触らぬ神に祟りなしということで、この記述は「(参考: 新明解国語辞典第六版と角川新国語辞典との巻末活用表等)」に改めた。玉虫色の解決策である。
2012/11/20: 本履歴欄の下にあったこの下に出る広告はステマですよというジョークを削除した。もうステマネタは時期外れだし、広告がいつもそこに出ているとは限らないようなので。

*1:ちなみに、この話は元になっていた議論の本筋ではぜんぜんなくて脇道にすぎません。本筋は「掛算の順番を入れ替えてもよいこと(交換法則など)を小学校で教えるべきだろう」というような議論です。

*2:この2つを同じと考えるのは、「C言語プログラミング言語)と日本語は同じもの」と言うよりも妙なことです。

*3:元発言の主は、問題の本質が分かった上で、便宜的に「破綻している」という表現を使ったのだと思いますし、実際、元発言の主も、その読者も、問題の本質は理解しているようでした。私の言うようなことはもう分かった上で、彼/彼女らは話をしていると思います。

*4:凝り性ですいません。

*5:「俺のほうが正しく物事を見抜いているぜぇェ〜ッ!ヒヒーッ!ホヘェラヘラ」という暇つぶしでもありません。

*6:論理結合子(∧や∨や⇒や¬)の切れ味は自然言語にはなかなか出せないし、数式のように「量」の概念を素早く正確に扱うことも自然言語は苦手だと思います。私は数学も論理学も素人なのですが、それでもスゴく見えます。

*7:お情けないったらありゃしない

*8:当たり前のことですが、多くの人は結構忘れるんですよ、これを。

*9:完了・過去を示す「〜なかった。」ではないわけで。

*10:細かく言うと、動詞「叱る」の未然形に受動を示す助動詞「れる」を加え、この「れる」を連用形に活用して「て」に接続、「て」が動詞「いる」に接続して完成。(参考: 新明解国語辞典第六版と角川新国語辞典との巻末活用表等)

*11:例えば、「後に勉強をするならば、先に叱られた。」としてもいいなあ、などと考えました。でも、〈「叱られる」ことが完了した状態が現在継続している〉という表現の「もう叱られている」のほうが私にはしっくり来ました。

*12:日本語は英語ほど過去時制がはっきりしていないので、 was や did のようにクッキリとした表現にならないと思ったのもあります。かつては過去の助動詞「き」というのがあったらしいんですが、今は完了と過去を「た」でまとめて表現しちゃうようです。過去の「き」はかなり鮮明に単純過去を示せるように思います。

*13:例えば、"Something might have been being done."のような表現を「意識しながら処理」するのは大変だと思います。意識したって分からないわけで…。

*14:そういうわけで、私は母語話者が良く間違える(つまり皮相的な)言葉遣いの誤りをあげつらう人が好きではありません。よく観察すると案外と本人も間違っていますし、私も間違っていたりします。逆に、本人が間違っていると気づいていない誤り(たとえば「てにをは」の誤りなど)は気になります。自分の誤りに気づいたときはとても恥ずかしいです。困ったことです…。

「女子大生が夜キャバクラでバイトしている」と「キャバクラ嬢が昼は大学で学んでいる」との差について

◆無邪気な読解への懐疑◆

今日、少し時間の空いたときに携帯からツイッターを眺めていると、

「女子大生が夜キャバクラでバイトしている」と聞くとふしだらに聞こえるけど、「キャバクラ嬢が昼は大学で学んでいる」と聞くとまじめに聞こえる。まったく同じ事を言っているのに受け取る印象は正反対。[……]

といった記述のあるツイートが流れてきた。
 それはそれで一つの考え方だと思った。ただ、厳密に言うと少し違うと思った。
 そこで、ここではこの文章を起点として、言葉のとる面白い挙動について少し考えてみたい。

◆先に結論◆

「女子大生が夜キャバクラでバイトしている」と「キャバクラ嬢が昼は大学で学んでいる」のニつの文は"別のもの"である。
「ニつの文は全く同じ事を言っている」と発言することでニつの文の背景や文脈を取り除く。そうしてはじめて、ニつの文は「全く同じことを言っている」と言えるようになる。文の意味が変化する。
 最初から同じなのではない。
 これら二文に「〈望ましい〉 or 〈望ましくない〉」という反対の評価が与えられるのは、これら二文に「〈規範に従い名誉に値すると世間様が思うもの〉 or 〈規範からはずれて侮辱に値すると世間様が思うもの〉」という、反対の文脈が含まれているからだ。

◆本エントリの目的◆

1)単語が起動する文脈について考える
2)文脈が操作されて、まったく変わってしまったことを考える

◆本エントリの目的でないもの◆

1)元ネタ発言者への非難・攻撃
2)名誉と規範の体系への評価*1

◆本文◆

◇二文の真の意味(単語が起動する文脈について)◇

話題にする文章をもう一度よく見てみる。

A)「女子大生が夜キャバクラでバイトしている」
B)「キャバクラ嬢が昼は大学で学んでいる」

 件のツイートでは、このニつが「まったく同じ事を言っている」と指摘されていた。そう言われれば確かに同じ事だと思える。
 しかし、A、Bの二文を初見で読んで、直観的に「二文は同じではない」と感じるのが、おそらく一般的な日本語話者の感性だろう。だからこそこのツイートは「意外性を訴えるもの」として成功しているのだ。
 では、何故「同じではない」と思いながら、その後「同じことを言っているのかも」と納得させられてしまうのだろう。
 それについて少し考えてみると、一つの結論が出た。『AとBのニつを読んだ後に「ニつは同じ意味です」と言われた瞬間にAとBは同じ意味になる。そして、そう言われる前のニ文は別の意味である』という結論だった。

◇……それってつまり…どういうことだってばよ?◇

少し突っ込んだ説明をするには、まず、この二文が明示的には含んでいない「文脈」を目に見えるようにする必要が出てくる。
 そこで、AとB二文の違いがはっきり分かるように、補って書きなおしてみた。(念のために書いておくが、これは私の価値観ではない。だが、世間一般で、こういった見方をされるであろうという内容を、分かりやすいように誇張して書くとこうなるだろう、という内容*2だ。)

A')
「女子大生(という金銭的にはその仕事をする必要のない身分の若い女性)が、(ほんらい勉強や健全な交友に充てるべき時間である)夜に、(貞淑という美徳を省みること無く、カネが欲しい一心で、本来ならそこで働く必要などあり得ない)キャバクラで(正規労働ですらない卑しい)バイトをしている。(だからけしからん。)」

B')
キャバクラ嬢(という金銭的に困窮しており、水商売という卑しい職業につかねばならないような、教養もろくにないであろう人間)が(本来そういった連中が眠っているであろう)昼は大学で(少ない教養を高めて、その賎しい職業から脱出し、すばらしい一般人の世界で暮らす、まっとうな職業のまっとうな人間になるために)学んでいる。(だから立派である。)」

このA'とB'の二文を読んで、「同じことを言っている」と思う人はいないだろう。つまりはそういうことで、本来AとBはこのくらい隔たった文章なのである。
 「元の文にはそんなことは書いていないだろう。お前の勝手な解釈に過ぎないよ。」と思う人もいるかもしれない。その考えはそれで、ある面では正しい。しかし、ある面では間違いだ。
 もし元の文A、BにA'、B'のような意味が全く、カケラも含まれていないのだとすれば、何故、

受け取る印象は正反対

という現象が見られるのか。何故、私たちはこの「正反対の印象」を理解できるのか。
 もし、元の文の意味がまったく文脈を含まない、絶対的な独立性をもつ文章*3であったとすれば、そもそも今回話題にしている文章の意味が私たちには読み取れないはずだろう。しかし、実際には読み取れてしまうのである。
 この点を理解するには、少し抽象化して、元のニつの文章の単語を置き換えてみると良いかもしれない。
 もし、ニつの文が本当に「全く同じ事」を言っているのだとすれば、「女子大生がキャバ嬢だ」「キャバ嬢が女子大生だ」というように提示の順番を入れ替えると、「ふしだら」が「まじめ」というように評価が逆転することになってしまう。そこで、この構造はそのままに、文章を簡略化する。

文脈を切り離した文例:
「リンゴはミカンでない」というと悪く聞こえるが、「ミカンはリンゴでない」というと良く聞こえる。まったく同じ事を言っているのに受け取る印象は正反対だ。

誰かこの文章の「真の意味」が分かった人がいたら説明して欲しい。私には分からない。少し考えれば分かるが、提示の順序を逆にした程度で受ける印象が反対になるわけはないのだ。
 「」で括られたニつの文の意味は、論理的にほとんど同じ*4だ。ほとんど同じであるから、同じ事を言っているように聞こえるし、受け取る印象もほとんど同じである。

 この例を通して私が言いたいのは、とても簡単なことだ。受け取る印象が正反対なら、当然、言っていることは正反対である。AとBの二文が正反対に読めるとすれば、「正反対の何か」を、「言葉の、表面上の意味より余計に読み込んでいる」から、AとBは正反対の意味に読まれるのだ。

◇では、何が読み込まれたのか◇

いったい、何が「余計に読み込まれた」のだろう?考え方はいろいろあるが、ここではそのうちの一つだけを考える。「単語が暗示する文脈」というものだ。

◯A,Bに出現した、価値対立的な言葉◯
・女子大生
キャバクラ嬢
・バイトしている
・学んでいる
・夜
・昼

これらの単語を見て、一般的な日本語母語話者なら、色々な連想ができるはずである。
 AとBの文脈で言うなら、『女子大生』はより「まっとう(規範的)な」身分であり、ある面では(男子学生と同じく)「まっとうに」消費される性の対象である。『キャバクラ嬢』は「まっとうでない(脱規範的な)」身分であり、ある面では、(イケメンホストと同じく)「まっとうでなく」消費される性の対象である。『バイト』とは正規雇用でない「まっとうでない」労働であり、『学ぶ』とは「まっとうな」行動である。『昼』とは秩序に従って運行する「まっとうな」領域であり、『夜』とは欲望が野放図に活動する「まっとうでない」領域である。*5
 これらは、単語が起動する「文脈」の一部である。そんなものは出てこない!などと言った所で無駄なことで、私達は逆らいようもなく単語から背景に潜む文脈を読み取ってしまう。「"夜の"お菓子」という単語からは"性欲の匂い"がするし、「"昼間の"パパ」からは"社会で働く"パパの姿が思い起こされるのだ。
 実際は「夜のお菓子とは、夜間限定発売のお菓子を意味する」かもしれない。「発言者のパパは魚河岸で働いているから昼間は寝て深夜〜早朝に魚を売り買いしている、故に、昼間のパパとは寝ているパパを意味する」かもしれない。しかし、そういうことを言うと「理屈っぽい」とか「変なやつだ」とか言われたり、嫌がられたり、からかわれたりするのが普通だろう。*6
 言葉とはそういうものであり、ある言葉はそれが暗示する文脈を影のように、あるいは体臭のように含んでしまうものなのだ。

◇AとBが本来意味していたこと◇

そして、「女子大生→キャバクラ嬢」というのは、この文脈を含めて読めば「高い名誉の状態から、低い名誉の状態への推移」と見なされるのである。すなわち「下降」なのだ。「キャバクラ嬢→女子大生」は、その逆で、「低い名誉の状態→高い名誉の状態」だ。つまり「上昇」と見なされる。
 ある一点での姿は同じものに見えるかもしれないが、これらが内部にもつエネルギーの方向は正反対なのだ。
 だから「AとBは(世間的には)正反対の意味だろう」という、直観的な読みはとても正しいものだった。

◇文脈の消滅と、「まったく同じ意味」の出現◇

しかし、影や体臭は消すことができないにしろ、外部から干渉できるものでもある。風呂に入れば体臭は石鹸の匂いになるし、影は光のあてかた次第で変化する。正反対の評価が与えられるAとBの二文が、外部からの干渉によっては突然「まったく同じ」影や体臭を纏うことがある。
 今回の場合、干渉は簡単なものだった。書き手が、「ニつの文章は同じ意味だ」と言ったのだ。「ある女性がニつの場所で並行的に活動している」というニつの文章を提示した後に「このニ文の意味は等しい」と言ったのである。「別のものから、同じ意味を抽出しろ」と読者に指示したのだ。
 素直で正しい読者は「この二文の意味は等しい」という新たに起動した文脈に従ってAとBを再解釈した。本来そこに立ち上がっていたA'とB'の文脈を、読者自身が、自分の手でかき消したのだった。
 本来そこになかった文脈を新たに書き加えたから、本来そこにあった文脈の意味が消えたのである。

◆要するに◆

AとBの二文は、「元々同じ意味だった」のではない。発言者の手によって、「元々同じ意味であったことになされた」のである。
 しかしこの意味の推移は、読者からほとんど意識されることがない。そこに元ツイートの面白さがある。面白い「読解」の性質だと言える。*7

◆ところで、何でこんな長文書いたの?バカなの?◆

いやぁ〜、言葉って、本っ当ーに、面白いもんですね〜〜!(水野晴郎顔で)

履歴

2011/11/29:
・元ネタツイートはもう見つからないだろうと思っていたが、ググったら一発で見つかったので文中にリンクを載せた。しかも、既にふぁぼっていた。ググレカスからの裁きが下ったのやもしれぬ…。
・誤字訂正と表記ゆれの修正をして、脚注に少し手を入れた。
言葉が少しきつかったようで注意を受けたので、表現をすこし柔らかくした。確かに「誤りを含む」は言い過ぎだった。
・同上の理由から、「◆要するに◆」に脚注を加えた。
2012/01/11:
・誤字脱字、段落切り、表現の微修正
2012/01/24: やたら偉そうに見えたので、[えらそう]タグを追加。

*1:"お世間神の、規範と名誉の体系"はぶっ潰れてほしいと個人的には思うけど、時間もないし書いても読む人がいないので、ここでは論題にしない。

*2:世間一般でこういった糞みたいな価値観をもって活動すると「常識的」と評価されて平和に暮らせるが、こういったカエルのションベン以下の価値観を否定しながら生きると「変わり者」として白い目を向けられる。これらの、人間として見苦しい価値判断は、私が人生の中で否応なく学習せざるを得なかったものでしかない。つまりこれらは「衆愚的価値規範」に則った解釈である。私は、これが平均値(最頻値)的な意味での「世間の価値規範」だろうと推定している。「悪法もまた法」なのと同じように、「悪しき規範もまた規範」である。この規範から逸脱しながら生きていくリスクを見積もるには、まずこの規範をある程度知る必要があるので、私はけっこう真面目に学習した。

*3:そんなことはどんな単語、どんな文章にもあり得ないが。

*4:ここの文章を、例えば「A → ¬O」「O → ¬A」のように読む人にとっては、二文は全く同じ(対偶)だろう。だが、言語と論理式はそんなに厳密に対応しない。対応すると思ってしまうのは私も同じだけども、コピュラ(「だ」や「be」)は導出(→)ではない。また、焦点などの要素でも異なるだろう。

*5:繰り返しになるけれど、ここでいう「まっとう」というのは「多数派にとって好ましい様子」くらいの意味でしかない。これも繰り返しだが、私はこういうものの見かたが嫌いだ。

*6:少なくとも、私にはその経験がある。

*7:元ツイートは、この「別の意味を同じ意味にする手法」の価値を訴えるものに思える。私もこの主張は正しいと思う。本エントリでは「最初から同じ意味だという主張は事実と異なる」と論じたが、「結果としては同じ意味になる」とも書いた。元ツイートは「結果が同じ」になるのなら成立する話であるから、私の論は元ツイートの主旨をそもそも左右できないし、する気もない。

反・自己責任論の補足と、バールのようなもの[プライベート][似非哲学][批判][あそび]

ふと、先日のエントリの「考察」における、ロシアンルーレットの例は、「自由意志を持った人間の解釈が介在しないので、例えとして不良である」という意見もあり得るかなと思った。私の論のなかにおいては、それが六連発式拳銃でも人間でも、差はないと私は思っている。しかし、もう少し私の主張をわかりやすくするために、もう一つ、思考実験を考えてみた。「説明ー解釈ー撲殺型・人間ロシアンルーレット」である。*1

「説明-解釈-撲殺型・人間ロシアンルーレット(with バールのようなもの)」

参加者・用意する道具:
道具:

バールのようなもの(最初のロシアンルーレットにおける「弾丸」に相当)
・まったく別の種類の、簡単にそれぞれを識別できる写真6枚。うち1枚が「当たり」で、5枚は「外れ」。何が書かれているかは何でもいい。(ロシアンルーレットにおける「弾倉」に相当)

参加者:

バールのようなものを持って人を殴り殺す、解釈ー撲殺役(Interpreter)Iが1名(「拳銃」に相当)
・自発的な、自由意志をもったルーレット参加者(Entrant)E1〜E6が6名
・進行役(Manager)Mが一名(最初の例における「自然法則」(弾倉の摩擦力・重力・気温・天候…)に相当)

手順:

1)参加者E1〜E6には、六枚の写真の、どれが当たりか外れかは分からないようにする。

2)進行役Mは、解釈ー殺人役Iに、どれが「当たり」の写真を見せる。そしてこう言う。「この、写真が「当たり」だ。これから、E1~E6の六人が、お前のところにかわるがわるやってくる。それぞれが自分の選んだ写真についての説明をお前にするから、お前はそれが「当たりの写真」についての説明だと解釈できた時だけ、説明に来た奴を、バールのようなもので殴り殺せ。それ以外の場合は殺してはいけない。」

3)Iを別室に待機させて、MはE1〜E6の六人に、こう説明する。
「この六枚の中から一枚だけ、自分の気に入ったものを選んで、その内容を自分の言葉で説明できるまで覚えるように。覚えたかどうか私が確認して、確かに覚えていると分かったら、その内容を別室のIのところに行って、私にしたのと同じように説明する。その写真が「当たり」だと解釈すればIはお前をバールのようなもので殴り殺す。「外れの写真」と解釈したならばお前は生き延びる。」

4)各自の説明が伝わりにくいものでないか、Mがチェックし、合格したらIのところへ送り出す。

5)Iが、当たりの写真について説明していると思った者をバールのようなもので殴り殺すまで、6人は何度でもIの元に行って説明を繰り返す。

解説:

この思考実験で、全てが手順通りに行われた場合、つまりE1~6のうちの誰かがバールのようなもので殴り殺された時、E1~6には、「バールのようなもので殴り殺された責任」が、全くないだろうか。
私はE1〜6にもIにもMにも、「一人の死への責任」があると思う。1/6くらいは、死の蓋然性を引き受けていて、残りの5/6くらいを、他の参加者が引き受けていると思う。(こんなアホなゲームに参加している時点で死の責任があるという人もいるだろうが、それはまた別の話とする)

Kは、もちろん、E1~6に責任はないと思っている。引用しよう。

即ち読者が怒るか怒らないかは、文章の存在ではなく、読者自身の解釈の仕方如何で決まる
(ホームページ移転のお知らせ - Yahoo!ジオシティーズより)

従って、読み手である己の解釈の結果生じた怒りを書き手のせいにするのは筋違いである
(同上)

つまり、こういうことだ。
「IがEをバールのようなもので殴り殺すか殺さないかは、Eの選択と説明ではなく、I自身の解釈の仕方如何で決まる」
「従って、解釈ー撲殺役であるIの解釈の結果生じた死をE1~6が行った写真の内容説明のせいにするのは筋違いである」

つまり、Kの論によれば、E1~6は、誰もその死に責任を負わない。もちろん私はそう思わない。それは昨日のエントリ、つまり反・感情自己責任論の本論で既に述べたので、ここでは割愛する。

結び:

この思考実験は問題点を明確にするために行ったもので、理論の深化を図ったものではない。*2だが、とりあえず私の、Kの妙な論に対する違和感は収まったので、ここまでとする。私の違和感の原因は、「Kが責任逃れのために組み上げた屁理屈に、論理の衣をまぶして誤魔化していたこと」にあったのだと、明白になったからである。彼は、実際には自分の言いたいことを言い、それが自分の望んだように解釈されないと文句を言う。そもそも、私のツイートに対して@を最初に投げてよこしたのは彼であった。もし、解釈の責任が解釈者にあり、その解釈から発生した思考の責任もまた解釈者にあるとしたら、私のツイートを解釈した責任はKにあるし、そのツイートに対して「こいつを啓蒙してやろう」と思った責任もKにある。その勝手な解釈を元に、私に@を寄越して何かを言うなんて言語道断だろう。黙っているのが筋というものだ。*3

おまけ:

K氏の理論で、今でも興味深い点が一点あったのを思い出したので、少し考えてみた。結論としては、「気にしても意味なさそうだな」であった。

問題の箇所を引用する。:

表現者に責任があるとすれば「解釈者の反応」に対してではなく、「表現したことが原因で自らが被る不利益」に対してである。例えば表現後に周囲からの信頼を失った、など。勿論、解釈者の怒りの原因は解釈者にあるが、表現者が周囲から信頼を失った原因は表現者にある、ということになる
(引用元は同上)

これが正しければ、彼は、彼の行っている、Twitter上での意味のない活動に対する不利益を、一手に被らなければならない。彼はそれを引き受けているのだろうか。

ひょっとすると、Kの言う「責任」というのは、恐ろしく狭い範囲の「責任」について言っているのかもしれない。つまり、「撲殺すべき当たり写真についてEnが話していると"解釈をした責任"は"Iにある"」「説明の"結果としての死の責任"は「当たり写真」を選んで、その説明を行った"Enにある"」というものだ。それならばその通りだが、そんな範囲の狭い「責任」の概念をこねくり回して、一体どうしようというのだろう?責任があろうがなかろうが、同じようにEnはバールのようなもので殴られて死ぬのである。*4
ここから、私の自己責任で想像をたくましくしてみると、Kは、『「解釈そのものの責任が、解釈者に存在することを、解釈者は実際には理解していない」と俺は(はじめて)発見した!!』と考えているのではないか?言い換えれば、「俺は気づいたが、俺以外の人間は誰も、お前も、気づいていない!!!」ということだ。もしそうなら、自分の発明が「車輪の再発明」であることに本人ばかりが気づいていないことになる。実はほとんどの人間が気づいていることであるにもかかわらず。人間と言語の関係(≒解釈するものと解釈されるものの関係)は、大昔から研究されてきたことだ。様々な分野の学者達が、大変な量の思考を投入してきた・している・これからもするであろう問題である。少しでも先人達が重ねてきた研究を目にしたことのある人間なら、こんな当たり前のことを「発見」とは思わないので、可能性にすら気づかなかったが、もしかするともしかするので。*5

*1:分かる人には分かると思うが、実はこれ、「バールのようなもの」と書きたい一心で書いたものである。貴重な時間を無駄にしたと、今では反省している。

*2:よく見れば分かるように、「責任」の定義が緩い。まだまだ沢山考えられそうなことはある。

*3:彼の、「お前の解釈は誤解だが、俺の解釈は誤解じゃない」という論理展開は、超魔ゾンビに入ったザボエラを思い出させる。あれが現実に実行可能なら、私もザボエラは正しいと思うんだけど、実際にやると気持ち悪いことになる。

*4:今回は思考実験だから良いが、現実場面では、「解釈の責任」と「結果の責任」は、そう綺麗に別れないことも多いだろう。(個人でも、組織でも)それを分けることで、『「僕には責任はありません」と言える』以外の意味が何かあるのだろうか?ちなみに、法律では、「思考内容(つまり解釈内容)」に科される罰則はないので、言いわけには使えても、やはり実効性はない。法律が対象にするのは、「行動内容」(今回の例で言うならバールのようなもので殴り殺すこと)だけだろう。

*5:流石にこれはないと思うが…。

反・感情自己責任論 〜臆病な完全性への依存を超えて〜[プライベート][似非哲学][批判]

これは個人的な@やりとりから出てきたごく個人的なメモです。第三者が読むのはおすすめできませんし、面白さも保証できません。また、口調が大気圏を突き抜けるほど偉そうですが、これは素早く大量に書くために敬語を削り落とす必要があったからです。まあ私は普段から(偉くもないのに)偉そうな文を書くんですけれどね…。

序文:

筆者はTwitter上で感情自己責任論氏(以下 K)との対話を自己責任において続けているが、筆者はKが嫌いである。何だかものすごく怒っていた人によるとKはTwitterでも有名な粘着ユーザーらしい。@で話している間に一つKのアカウントが凍結された(凍結されたアカウントのgoogleキャッシュ)…が、新しくアカウントを獲得して@を飛ばしてきた。(鬼気迫る新規アカウント)こわい。*1
しかしK氏の独自理論*2は興味深い。理屈に一定の筋は通っているのに直観的に独善である。しかしどこが独善であるかは判然としないのである。長い間それについて自問自答しつつテキストを綴ってきたが、今、それが明確となり、やっとテキストも纏まった。これにてK氏への興味はなくなった。よっぽど面白い反証がない限り、この「感情を自己責任で引き受けて」心置きなくブロックしようと思っている。
 ちなみに、K氏の言うように「真実が一つでない」かは分からないが、筆者の論を絶対の真実だと主張する気はない。何を真実と捉えるかは、何が実際に真実であるかと関係なく、それを捉える人間の問題だろう。

批判対象:

本論において筆者が批判の対象としているのは以下URLにあるKの主張である。その他の論は対象としない。

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility

結論:

責任は不確定性を引き受ける。「解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotion Self-Responsibility Theory」は、不良の論である。不良の論であるとは、筆者の見解である。
 感情自己責任論は「責任」の概念を次のように定める。: 責任とは100%確実なこと、換言すれば同義反復に陥るような、ごく限られたものだけに適応されるとして満足する。(例:文章解釈をしている主体が文章解釈者であるから文章解釈者は文章解釈の「責任」を負う。)
 これは当たり前のことだ。そして、ある解釈を引き起こすことを予見できながら避けないなら、それは予見を半ば受け入れたということだ。「解釈は解釈者の責任のもとに行われる=お前が悪い、俺は悪くない」ということにはならない。
 また、責任の取り方というのは、感情自己責任論が想定するような振る舞いばかりとは限らない。例えば、「感情自己責任論」を少し読んで駄論だと目を逸らして黙るのは自己の感情への責任の取りかたの一つだ。一方で、書いた人間はバカに違いないと陰で嘲笑いながら適当にK氏と話を合わせて観察するのも感情への責任の取りかただろう。さらに、K氏のような面倒そうな人間をシャットアウト(Twitterならブロック)するのも責任の取りかたである。何て低劣な論なんだと不快に思いながら、全体に目を通してその欠点を考えてみることも、自分の感情への責任の取りかたである。感嘆の声を挙げて愚論に啓蒙されることが「責任の取りかた」とは限らない。

感情自己責任論の非妥当性に対して、筆者がより妥当であると挙げる「責任」の導きかたは以下の通りである。: 「責任」とは、ある主体の行動がもたらす蓋然性(確率)の内部に、その蓋然性の高低強弱に対応する形で存在する。例えば、発言者Sが、聞き手Lを怒らせるような発言Aをした場合、発言Aを理解できる者が一般的・平均的に発言Aから引き出し得る怒りを受ける蓋然性の高低*3が、「発言Aに対して発言者Sが引き受けるべき責任」の度合いである。

考察:

K氏の感情自己責任論は、こう考えるものである。

『発言者Sが、相手から怒りを買う発言Aをした場合、その責任は発言Aを「怒るに値する意味a」だと解釈した聞き手Lにある。言い換えれば、聞き手Lが怒るのは聞き手L自身の解釈の結果であり、発言者Sは発言Aに一切の責任を負わない。故に、聞き手Lからの負のフィードバック(怒り、暴力等)を受ける責任を基本的に負わない。(ただし(なぜか)聞き手Lが発言者Sへの信用を失うことは可とする。)』

筆者の反・感情自己責任論は、こう考えるものである。

『発言者Sが発言Aをした場合、発言者Sの責任Rは聞き手Lに怒りをもたらす意味aとして受け取られる蓋然性Pに基本的に比例する。言い換えれば、発言者Sは自分の行動が含む聞き手Lを怒らせる蓋然性に対応する量の責任を負う。(なお、聞き手Lが発言者Sへの信用を失うことも当然、発言者Sの責任に含まれる。)』

例:「ロシアンルーレット参加者は死の責任を負うか?」:

Kの理論では、ロシアンルーレットに参加して死んでも、参加者に被弾の責任はない。『参加者の順番が来た時、ちょうど弾丸発射されるかどうかは、弾倉を回転させられた銃と、自然界の各条件(気温、湿度、摩擦係数…)が勝手に決めること(≒聞き手Lが発言Aを受けた時に勝手に解釈すること)だから』である。

筆者の理論では、6発入る回転弾倉に1発弾が入っている(≒発言Aの蓋然性)なら、1/6に対応するだけの責任(≒1/6の確率で死ぬ)を、ロシアンルーレットの参加者は負う。参加者が知っていても知らなくても、参加者の行動は、それが引き起こす被弾の蓋然性を1/6だけ含んでいたからである。
 なお、この例において、「ロシアンルーレットに参加するかしないか」は論点にない。「参加した場合に負う責任」についてここでは論じた。

*2011/09/07、筆者追記:ロシアンルーレットの例えでは私以外の人間に分かりにくそうなので、もう一つ思考実験を考えてみた。こちらは話が見えやすくなるように心がけた。
新・ロシアンルーレット思考実験のエントリへ
ここの例についてもう少しだけ説明をしておくと、「弾倉を回転させた時、どこに弾が入った状態で止まるかは、加えられた力と銃と自然条件が決める ≒ 発言を受けた時その言葉をどう解釈するかは聞き手が決める」ということだ。

略語一覧

アルファベットで示した各種の用語が分かりづらいと思うので、ここに一覧としてまとめておく。

略語まとめ:

  • S = 発言者(Speaker)
  • L = 聞き手(Listener)
  • A = 相手を怒らせうる発言(Affront)
  • a = 発言Aに含まれる、相手を確実に怒らせる意味or解釈
  • R = 責任(Responsibility)
  • P = 発言Aがaと解釈されて相手を怒らせる確率(Probability: 蓋然性)=(a/A)
  • C = 例外的事項に対する補償(Compensation)

*注: 補償Cについてもう少し説明すると、例えば「SとLに行動などを強要する人や条件がある」場合、補償Cに0に近い値が入って責任Rも0に近づくということ。完全に外部的な要因を排除するための変数。

Kの感情自己責任論まとめ

0

R = C{L(P)}

考慮すべき「例外」は考慮されうる。例えば、先のロシアンルーレットの例で参加者がもし参加を強制させられたのなら補償Cには0に限りなく近い数字が入る。故に、SはAを行ってもLにおける意味aという解釈の責任を一切負わない。責任は(A→a)と解釈したLにある。
 ちなみに、Kの論では「発言Aを解釈する行動の責任が聞き手Lにある」だけである。「聞き手Lの責任のもとで聞き手Lが発言Aを解釈し、その結果として聞き手Lが発言者Sを信用しないことを選択した場合に発言者Sが被る不利益」は発言者Sの責任である。『「聞き手Lにおける発言Aの解釈の責任R」と、「その解釈が引き起こす不信用の責任R'」は別物である』とされる。

表現者に責任があるとすれば「解釈者の反応」に対してではなく、「表現したことが原因で自らが被る不利益」に対してである。例えば表現後に周囲からの信頼を失った、など。その結果感じる怒りは当然、それを感じる者当人にある

筆者の反・感情自己責任論まとめ

0

R = C{S(P)}+C'{L(1-P)}

また、考慮すべき例外は考慮されうる。故に、発言者Sは発言Aにおいて、発言Aが含む解釈aの割合、つまり蓋然性Pのぶんだけ責任を負う。聞き手Lは発言Aが平均として内包しない解釈a'をするなら、この「極端な解釈a'」としての責任を負う。自然言語における、「誤読」や、「勘違い」、「よく読め」といった非難が起こる時、この非難はP=0であるということを必ずしも意味しない(発言者の側に誤解を招く要素があったかも知れない)。しかし、誤解される蓋然性Pが非常に小さい(誤解の余地が少ない)から、逆に(1-P)が極端に大きくなる、だから聞き手Lの責任が極端に大きいという意味だと筆者は解釈する。

例えば、以下のようになる。

聞き手Lが悪い場合:

  • 発言者Sの発言Aが誤解を呼ぶ蓋然性Pが低く、0.01(1%)だったとする。
  • この時、聞き手Lが発言Aを誤解した場合、Lの責任は 1-0.01=0.99(99%) である。
  • この時、Lの責任は大きいから、「発言者Sの発言を良く聞け!」という非難が聞き手Lには向けられることになる。

発言者Lが悪い場合:

  • 発言者Sの発言Aが誤解を呼ぶ蓋然性Pが高く、0.99(99%)だったとする。
  • この時、聞き手Lが発言Aを誤解した場合、Lの責任は 1-0.99=0.01(1%) である。
  • この時、Lの責任は小さいから、「発言者Sの言いかたが悪い!」という非難が発言者Sには向けられることになる。

また、筆者の論では、「Aの解釈の責任Rと、それが引き起こす不信用の責任R'」はひとつづきである。なぜなら、Aの解釈aがその後の不信用を呼ぶものであり、逆はない。二者の間に明快な前後関係が観察されるからである。

本論:

「尊大に、しかし謙虚に、不確定の世界を生きることは、誠意である。」

考察で述べたように、筆者は、明確に感情自己責任論とは異なる立場を取る。ここでは仮に反・感情自己責任論と、対立を明確にする名称をとったが、本来であれば「穏当相互責任論」とでも名乗ったであろう。
 感情自己責任論の問題点は、不確実性から逃げ出して完全性へ執着した結果としての、世界そのものと直面する勇気、および誠意の不在である。世界に絶対の法があるとして、それは現在の人間の情報処理能力や各種技術では到底容易には扱えないものであるし、到達もできないものである。そうであると同時に、逃げ出すことが許されないものである。

筆者は、真理の理論(何を正しいと考えるかについての哲学的立場)において、「整合説」の立場を取る。(ある物事が、他の観察された結果、理論、現象などと矛盾なく存在できる時、その物事を真と考える。*注:対義語は「対応説」。(この世にはイデア的な絶対の真理があり、それと対応しているか否かで物事を真か偽か判断する))故に、整合性を検証できない事柄は、真かもしれないし、偽かもしれないが、それを確かめることはできないとする。つまり、本論考察で述べた「責任」を、厳密正確に計測することは、人間である以上、不可能である。
 しかし、人は有史以前より、不確実性と対面してきた。自然の不確定性から確定的な法則を抽象し、体系化し、伝承して、今日の人類の発展はある。不確実性を正面から引き受け、有限たる人の身に及ぶ範囲で力をつくすことこそ、人間理性の素晴らしさ、人間の勇気の素晴らしさ、人間讃歌である。知らないものを「知らない」と認め、先へ進む意志こそが進歩を引き出すのである。
 「それは私がした解釈ではないから、私の責任ではありません」というのは、不確実で計測困難な、「他者」という存在の重さや恐ろしさ、難しさから、完全に逃げ出す敗北である。人間理性の死と言えばやや言葉が過ぎるが、筆者にはそれに限りなく近い悪徳に思えてならない。知的怠慢である。この世は不確定である。他者は未確定である。言葉の意味は確定しない。故に我々は努力をし、故に行為の結果が理不尽なものにならぬよう、日々を生きるのである。

言葉ーもっと大きく言えば記号は、その本質に虚偽性を含む。否定の言辞(例:Tではない)が存在するということは、実際(Tである)と反対のことを言えることを意味する。言葉は不確定なものであり、受け手が解釈するまで未確定である。
 しかし、その虚偽性故に、人類は「不確定なことがら」つまり、あるのかないのか分からないもの、正しいのか間違っているのかわからないものを深く見つめ、その内部に存在する「可能性」を見出してきた。それは時に失敗し、時に欺瞞を生んだが、同時に後の世代に学んだ事柄を託すことを可能とし、答えの容易には得られない課題を考え続けることを許した。つまり、発展を許したのである。科学技術は、言語の未確定性がなければ存在しなかっただろう。(帰無仮説の処理、背理法は、まさに否定の言辞における、有用性の証明だ)無知の知とは、痛みを知ってなお進もうとする、野卑さの裏返しである。(無知だからもうこれ以上知らなくていいとも、自分の知らないことに口を挟んではいけない、ともしない。ソクラテスの弟子達は後世に残る多くの研究と発見を残したではないか。無知を引き受けた上で、前へと進んだからであろう。)
 それだけではない。言語に存在する未確定性の底辺、最下部を、細いが確実に「最低限度の信頼」が流れている。母語話者同士が対面した時、双方の会話は通じないことが多いにも拘わらず、我々は「最低限度これは通じる」という、かけがえのない信頼の中にあることを疑わない。口汚く罵り合う敵味方であってもこの最低限度の信頼を持っているのだ。相手を傷つけることを最低限信頼できない罵倒の言葉には罵倒語としての価値が薄い。

さて、感情自己責任論とは、逃避である。自己責任という名の殻に引きこもり、不定形の世界から、清い、安心できる完璧へ逃げ出す。「それは私が言った言葉ですがあなたが解釈しなければその意味にはなりません。よってその意味も全てあなたの責任で、私は自分の発言に関して完全に無責任です。」というのは「感情自己責任論」というより、「行動自己無責任論」である。

では、手酷く有害な「解釈違い」を、もし「何とかしたい」場合、どうするればいいのか。答えはやはり不確定だ。だが筆者の意見を言うなら、「信頼」である。
 精神分析医は、患者のもつ防衛機制が害になっている時「それは防衛機制である」と指摘する。だがそれは無責任に放り投げるだけの言葉ではない。精神分析医もまた防衛機制を働かせ、投影し、合理化し、逆転移*4し、反動形成する。ただの人である。「解釈違い」をおかすのである。その不完全性を引き受け戦う。正確で公平な観察能力を養うために何年も体系的で専門的な訓練を行う。これが10年を超えることもまれではないそうだ。*5彼らはこの訓練期間を経ているから、患者から信頼を得られるのだろう。私は精神分析の効かないOCD患者であるから、正直、あまり精神分析を信用していないが、それでもこの姿勢は素晴らしいと思う。
 また、臨床心理*6に携わるカウンセラー達、たとえば非支持的カウンセリングを行うロジャース派の人々であっても、やはりスーパーバイザーの指導のもと、時に10年に及ぶ専門的訓練を重ねるのである。彼らはさらに、ラポール*7(治療者と患者間の望ましい信頼関係)の構築に力を尽くし、そのための努力を今日も続けているという。これもまた不確定性を引き受けない人間にできることではない。「他人は、自分をどう見ているのだろうか?」という根源的な不確定性を全て「投影」と名付けて直視しない者に光は差さない。不確定性の恐怖と闘いながら他者の世界への門を叩くものにこそ、光は差すのである。

K氏には、ぜひ、フォロー数0の、アイコンはデフォルトのままの、プロフィールには何も記入のない、HPには広告だらけの、信用ならない姿を卒業して来てもらいたいと思う。ここでは強く批判したが、私は、K氏の哲学的思索の能力はけっこう高いと考えている。ならば、その狭いドグマの檻から出れば大変な力を発揮できるのではないかと思う。だからこそ、リプライを受けた時に即ブロックを避けて(意図を測るために辛辣な口調を使ったが対話を続けたのである。K氏流に言えばそれは私の「投影」だかなんだかなのかも知れないが、私はそれを正しいとは全く思わない。私には投影を正確に検出するだけの訓練の蓄積がないから真か偽か判断ができない。何より、私にはその手の素養がさしてないのである。
 ちなみに、K氏が私の言うことを完全無視しても、それはそれであり得べき世界の運行である。大体のことは不確実性の雲の中であり、それを引き受けることが「責任」である。

欄外(上記論とは切り離された話として)

ちなみに、K氏の論には、本論で指摘した以外の場所に、大きな矛盾点がある。全てを指摘する必要を感じないので最初に目についた1つを指摘するに留める。

「自殺に追いこまれるほど虐めた場合、いじめっこが悪い」という主張が、感情自己責任論と矛盾する。(いじめその他人権侵害に関するよくある勘違い):

「自殺の原因」が無くても「自殺するほどまで精神的に追い詰めた原因」はいじめた者にあり、道義的責任は免れない。(感情自己責任論より)

私も同意見ではあるが、「感情自己責任論においては」、「ある物事の解釈は、解釈者が100%の責任を負う」のであるから、「いじめ」という現象を「自殺するしかないもの」と解釈したいじめられっこと「こいつをいじめていいんだと世界を解釈したいじめっ子」の、双方が「100%悪い」ことになってしまう。この点は先の穏当相互責任論(反・感情自己責任論)では述べなかったが、実は、考え方によっては、解釈というのは一方通行ではない。相互が相互の主観で勝手に行い、その結果が現世で激突するものなのだ。
「いじめて殴られても翌日そんなことは忘れてしまえばよい。肉体的負傷の痛みも筋肉痛だと解釈すればよいのである。」と言ってもいい。そうすればいじめという概念が地上から消滅し、いじめっこがいじめられっこを殴るが、それは双方共に「いじめではない」という、およそ我々の直観を超越した新世界が誕生する。すべては解釈次第というのはそういうことだ。「肉体的反応には解釈が介在しない」とKは述べていた気もするが、脳科学の成果が出ているこの時代、詭弁でしかない。脳は肉体の信号も錯覚できる(例:幻肢やヒステリー)。故にダブルスタンダードである。
筆者の穏当相互責任論(反・感情自己責任論)を取れば、いじめとは本来あるべきP(いじめられっ子を虐めて良いという解釈の存在可能性)から逸脱していることである。本来いじめて良い人間など、そうそういるものではない。つまり正統なP(つまり、(1-P))をうまく定めて尊守できれば、いじめは減ってゆくという解釈になる。ただし「本来的にあるべきいじめ」などというものが存在する場合は別の話になる。あまり想像したくないが。

更新履歴

2011/09/07 23時09分:最初にある注意文と考察内ロシアンルーレット関連部分に追記・誤字修正
2012/08/07-2012/08/08: コメントを頂いたのをきっかけに、読み返して読みづらい点を修正した。詳細は更新履歴 - dosannpinnのメモ帳にある。
2012/08/12: 句読点の訂正。脚注の追加。
2012/08/12: 何が悪かったのか、編集中に記事がずいぶん前の内容に巻き戻ってしまった。なるべく元に戻したが、いくつかの脚注が失われたので日時入りで書きなおした。
2012/08/24: 「本論」中でプラトンソクラテスを混同していた。プラトンソクラテスと修正した。
2012/09/04: 更新履歴が肥大化していたので、新エントリ「更新履歴 - dosannpinnのメモ帳」を作成して長い記述はそちらに移した。
2012/09/04: 「ここでは強く批判したが、私は、K氏の哲学的思索の能力はけっこう高いと考えている。英語も私より良くできる。」から「英語も〜」を削除した。この部分の脚注も削除した。詳細は更新履歴 - dosannpinnのメモ帳にある。

*1:2012/08/12記: その後、こちらも凍結されたようだ。貰ったコメントによると、今はアメーバのほうで頑張ってしまっているらしい。

*2:2012/08/12記: 独我論かと思ったら全然そうではなかった。

*3:簡単に言えば、Aと言ったら怒られるだろうと予測できる度合い

*4:これが、私がK氏へ出した謎掛けの第一の答え。分析医の大敵である。

*5:これもK氏に出した謎掛けの答え。専門的訓練を積んでいない人間には何が投影で何が投影でないかを指摘する資格がない。私が投影と言おうがK氏が投影と言おうが、それはただ言っているだけのことだ。しつこくて声がデカイやつが勝ち、面倒になって言い返すのをやめたほうが負ける「無限それは投影だゴッコ」である。

*6:私は投影=精神分析の理論だと言ったが、会話を続けるうちに「ひょっとして、臨床心理学の世界で使う「投影」の概念か?」と思った。そこで、「時に、あなたの言う心理学って、何心理学です?」と聞いてみたわけだが、答えはなかった。何故全ての感情を引き受けるたくましい精神の持ち主であるKが、自分の無知の知と向き合えないのか。とてももったいないことだ。; 2012/08/12追記: 自らの無知に向き合えないのに「無知の無知」(感情自己責任論より引用)とはよく言ったもので、K氏の感情自己責任論は、K氏の願望を映す鏡なのだろう。

*7:2012/08/12追記: これもK氏と私には「投影」がどうのといった話をできない理由である。K氏と私の間にはラポールなどない。

言語の運用能力に乏しい「言語力検定二級」について

「言語力検定」というものがあるらしいと、先日Twitterで知りました。
gengoryoku.jp

学校で「指導」される「国語」という教科は、体系だっていないように思います。

簡単に言えば「可否基準の曖昧さ」が過ぎます。自然言語はどうしても曖昧になるものですし、だから良い点もありますが、あまりにも曖昧過ぎるのです。ほかの人間より「よく読んだ」生徒を「誤答者」として殴りつけることはかなり多いし、それに対する正確な説明はほとんどなされない。(具体例が本記事の中にあります)
もののあはれ」も「論理的な文章構造」も、怠惰な指導者に教授できるような、皮相的なものではありません。子供たちだって、恐らく、そんなことは理解していて、それでも権威に一定の威力を認めるからこそ黙っているのだと思います。もちろん、熱意ある優秀な国語教師も沢山おられるはずですが、私が学校教育を受けた時の経験からすると、そうした教師から十分な指導を受けられるのは、単なる僥倖と言うよりなさそうです。*1
そんな状況に風穴をあけるべく、有志が立ち上がったのかなあと思いました。そうであれば素晴らしいことだと思いました。早速、どれほどのものかを知る為に、まずは自分で言語力検定2級の問題をやってみました。サンプル問題をやる分には無料なので。

言語力検定二級・問題(pdf)
言語力検定二級・解答(pdf)

こんなもので測定できるのは、出題者の迂闊さだけではないか

結論を言いますと、あまりにも酷かったです…それはそれは恣意的な、まさに自己満足と呼ぶに相応しい代物でした。そこで、なぜ私ががっかりしたか、あの問題の何が悪いのかを、自分の言葉で述べてみることにします。

もし以下に綴る私の「言葉」に力がなければ、私の主張が正統でないと読者の皆さんは読み取ることができるでしょう。逆に、もし私の言葉に力があったなら、私の批判にも幾分かの正当性が宿ることになると思います。
(*注:以下から結構な長文なので、単に「私の見解」を見るだけなら、最後のほうにある「結論にかえて」という段をご覧ください。)

言語力検定二級を問題ごとに見る

公式サイトにあった言語検定2級の問題は次のような構成になっています。
問1、2:選択式
問3、4:記述式

具体的には現物を見てほしいと思いますが、
問1と2は、中学・高校の「国語」にあるのと同じタイプの、しかし質はさらに低い問題です。
問3は、与えられた視点を用いて課題文・表から情報を抽出し分析してみせろ、という問題です。
問4は、3よりもより範囲と視点を多く、かつ広く取る必要がある問題になっています。
(しかし、解答を見れば分かるように、出題者はそこまで考えてはいないでしょう。)

では、具体的に批判に入ります。お手数ですが、問題・解答と見比べつつ読んで頂ければ(一度自分で解いてみてからなら更に)、分かりやすいかと思います。

問1について

要するに、「E以外は正解」。そうは思えないとしても。

1)選択肢E
ゴチャゴチャ解説されているような事を考える必要はなく、Eを消去できればよい問題です。…これは何の試験なんでしょう?そのEを、なぜ消去するかと言えば、「『手段』とは『具体的な方法』であり、『Eの内容』は『注意事項』である」という、「手段」という単語の定義問題です。選択肢を注意深く読めば解答が出せる、言語力不要の受験問題に過ぎません。

しかし、この定義問題にすら疑問があります。この「注意事項」を「考え方」と受け取ると、これを「手段」と絶対言えないという事もないからです。
例えば、「テストで高得点を取る一番いい手段は、問題を良く読むことだ」と、(やや不自然にしても)言えないことはないでしょう。こういう説教をして下さる教師もいるかもしれません。同じように、「レンタカーを安く借りる為の一番いい手段は、小型車を選ぶことだ」と表現する人も、恐らくいます。これは、抽象的な「注意事項≒思考方法」を、具体的な「手段」という言葉で例える比喩の一種(換喩)であると解釈できます。
そのくらいは「言語力」ある人々なら、想定していておかしくないと思います。杓子定規にしか言語を運用できない出題者には、どうも「言語力」が無いのではないかと、私には思われます。

2)選択肢B
解答ではこれは「適切」らしいです。問題文をもう一度見てみます。

レンタカーをいつでも安く借りる手段として適切であるとこの記事がいっているものは次のどれか、当てはまるものをすべて選びなさい。

読者のみなさんはお気づきだと思いますが、注目すべきは「いつでも」という副詞です。[←誤り。脚注参照]*2
この手の問題に「いつでも」なんていう言葉が入っていれば優れた人はいつでもこれに気がついて、いつでもこれについて考えるに違いないのです。

レンタカーがセットにされた旅行商品は、「旅行先でレンタカーを利用したい時に安く借りる手段」であって、「レンタカーをいつでも安く借りる手段」ではありません。「手段」という言葉の定義問題にこだわった出題者は、「いつでも」という言葉にはこだわらないようです。「言語力」はあっても、注意力がないように見受けられますね。

3)選択肢C
これは読解力というよりは、推論が問題になってきます。「考える力」も言語力の一部らしいですから(pdfの右上にそう書いてあります)、当然それも問われていると考えるのが普通の人間です。
問題文の最後から三段落の最後に、こうあります。

一拠点の平均台数は5台だが、需要があれば増車しているという。

なぜ、問題文中にこんな記述があるのでしょう。「置かれている台数が少ない」という主張をするための記述ではないのでしょうか。であれば、「5台たまたまなかったケース」を想像する人が(特に人口密集地に住む人間であれば)いるのではないでしょうか。人口密集地では「予想外の需要で全部出払っている」ような状態はあり得ます。また、「需要が増えたので増車」したとしても、必要な時すぐに使いたいのがレンタカーですから、増車が遅れる可能性を考えに入れたのなら、<いつでも>とまでは言えないでしょう。
つまり、この問いは、<いつでも>という条件に合致しない可能性があります。それを考慮した用心深い人物を、「言語力がない」と言ってしまうのはいかがなものでしょう。
しかし、出題者はその点を考えなかったようです。想像力もないようです。

問2について

この問題も「E以外は全て正答」らしいです。採点が楽でいいですね。先と同じように、疑わしい選択肢を具体的に見てみます。

1)選択肢A
問1で格安レンタカーが出払っているケースを想定した人は、これも消去するでしょう。注意深く、自分の頭で考えるものには「言語力」は宿らないようです。恐ろしいことです。

2)選択肢C
GWということは、連休で、レンタカー業界においてはお客さんの多い時期だと考えられます。

今一度、課題文の上から三段目(見出しの「会員活用割引」の左隣あたり)を見てみましょう。

実際の成約率は75〜80%だ。

こうした比較・予約サイトは[……]ゴールデンウィークなどの需要ピーク期には格安プランが出にくくなる

成約しなかったら別の選択肢を選べば良いし、その為に問題文も「〜つもりだ」という、確定度の低い言い回しを使っているのかもしれません。ですが、そんな「出題者ルール」を回答者に押し付けるのは中・高・大学受験だけでいい。受験はそういう能力を計測する面もありそうです。しかし、「言語力」を計測したいのなら全く意味がありません。それで計測できるものは「言語力」ではなく、「いかに予習/対策し、パターン学習を行っているか」だからです。

「GWは混むのだから成約率は当然落ちるだろうし、格安プランが出にくくなるって書いてあるから、”適切”じゃあないな。」
私はそう考えました。とりあえず予約が取れるかの確認には行くかもしれませんが、普段が75〜80%程度の確約率のサービスだと考えた場合、「格安プランが出にくい」時期において、”適切”とは思えません。せっかくの注意事項を読んでない、と判断されちゃあかなわないと思った私は、心配性だったようです。「言語力」溢れる人の前では、あえて愚鈍に振舞うのが良さそうです。

問3について

この問についての解説ですが…どうして「言語力」溢れる人々は、「箇条書き」が使えないのでしょう?何度も見返すタイプのややこしい話は箇条書きにしてしまうのが一番楽だと思うのですが。

例えば、こんな感じに書き換えると、採点も楽になるのではないでしょうか。

###
最重要:「経費」について述べているか否か(述べていなければ誤答)
重要:以下の差に触れているか(触れていなければ減点)
A)「レンタカー:1レンタル毎に課金 vs. カーシェアリング:月極」
B)「レンタカー:車のレンタル時間への課金 vs. カーシェア:車の維持費とレンタル時間への課金」
###

さて、この箇条書きを見て分かるように、正答例は「課金対象の特徴・課金形態について」の話をしています。「経費の違いについて述べよ」という問題で課金形態について解答しても間違いではないと思いますが、言語力ある出題者であれば、最初から「課金形態」と言いますよね。「経費」というのは以下のような意味ですから。

けい・ひ【経費】
1.定まった平常の費用。
2.国または地方公共団体の需要をみたすのに必要な費用。また個人経済で、生活費・営業費・建設費・出資金など。「ー節減。」
3.ある事をするのに必要な費用。「必要ー」
(「広辞苑 第六版」より)

けいひ【経費】
その事を行うのに必要な(いつも決まってかかる)費用。「ーがかかる/ーを切り詰める/必要ー」
(「新明解国語辞典第六版」より)

問1では「手段」の定義にあれほど手厳しかったのに、今度は一体どうしてしまったのでしょう?
何より、「経費」の話なのに、数字が一つも出てこない正答例を目にするとは思いませんでした。まだ誤答例の方が数字が出てきているだけ良く見える始末です。
解説を見るに、どうやら「両者を経費の観点から考えた場合、その異なる部分(≒課金形態)を抽出し、述べよ」というのが「真の問い」のようです。「言語力」というのは、どうも「テレパシー」のことなのかな?という疑問が湧いてきました。

問4について

問題がえらく曖昧です。「あなたの住む地域」という恐ろしく漠然とした対象しか提示されていません。「言語力」のある出題者なら、もう少し具体的にものを言うと思います。「〜という職業において」とか、「…という用途の場合」とか、上手く範囲を絞ってくるのではないかと。

さて、二つある正答例の一例目を見てみます。

私が住んでいるのは新興住宅地で、専業主婦が多い地域です。車を持っている人は多いけれども毎日乗っている様子は無く、買い物に行く時に週に1〜2回程度、数時間くらい使われているようです。利用頻度を考えると、スポット的なレンタカーよりもある程度の頻度まで割安感のあるカーシェアリングが良いと考えています。

注目すべきは以下の表現です。
「スポット的なレンタカー」「割安感のあるカーシェアリング
さて、「スポット的な」ってどういう事なんでしょうね?「言語力」に溢れる形容であり過ぎて、私には具体的なイメージが伝わってきません。「必要な時点において、集中的に使うことに特化している」ということでしょうか?狭い範囲で使われる言葉を、うっかり使っちゃったんでしょうか?試験場面という公的な書き言葉を使うべき場所で、内輪言葉を堂々と使う厚顔無恥を身につけられたら、私もきっと生きやすいだろうと思います。
そして、「経費」について触れているのは、「割安感」という単語だけです。大変な疑問なのですが、「経費について教えてくれませんか?」と引越し業者か何かに聞いて、「割安感があります」と回答されたら、皆さんは「言語力ある説明がなされた!」と思うでしょうか?
私はてっきり、そうした回答に対して「要領を得ない」と感じる「言語力」溢れる素晴らしい先生方がこの検定をお作り遊ばしたのだと思ったのですが、期待しすぎちゃったようです。本当にすみませんでした。

結論にかえて

今、日本では、「言語力検定二級」の問題作成者の国語力低下が懸念されている。他人の「言葉を用いる力」を測定してみせるというのは、本来、大それた行為である。それであっても敢えて行おうとした勇気には、一定の敬意が払われてしかるべきかもしれない。
だが、この「大それた行為」が低い言語運用能力によって実現された時、これは憎むべき「恥を知らぬ悪徳」へと変貌するのではなかろうか。
「人の振り見て我が振り直せ」「他山の石」など、我々の先祖たちが残してくれた教訓は多い。先人たちの知恵に唾を吐くような真似だけはしたくないものである。問題作成者の反省は、喫緊の課題であろう。

おまけ

何が言語力検定だふざけんな、古事記から日本語学び直せ!

追記

2011/5/10, 23:15 国語教育批判に関しては、あまりに言い過ぎであったので、表現を柔らかくした。
基本的な主張は「1)体系だっていないから、普通の教師の手には余る 2)しっかり読んで考えるとむしろ誤答になる類の悪問を野放しにするのは、知的怠慢である」の二つ。能力ある教師を責めるほど、私は有能でも偉くもないです。

履歴

2012/09/03:
・脚注のおふざけ短歌で更に本格的にふざけるために、仮名遣いと単語を変更した。
・脚注の変な言葉遣いを訂正

*1:そもそも、「国語教育の方法論」を体系だてて論理的に語る「言語力」を私はほとんど見たことがないが、これはどういう訳だろう?それが出来ない教師こそが「国語」を学ぶべきである。歳をとれば自動的に「若者の能力低下」を嘆くことのできる国に住んでいるからといって、自己練磨を怠る無能教師が大きな顔をしてよいということにはならない。生徒たちの母語運用能力に頼り切って己の無知から目を逸らし、「嗚呼あはれ 何ともあはれ おう、あはれ きみらもあはれと 言はぬは不思議」と言うだけで、本物の「もののあはれ」を言語を操って描き出す能力が薫陶される道理はない。

*2:2011/08/25:副詞というのは誤りだろうと気づいたので追記。『いつ(時の指示語・代名詞)+で(範囲を示す格助詞)+も(取立て助詞)』と考えるのが良さそう。